【第32話】 雨の道を選ぶ
朝から、風待ち小屋の屋根を細かな雨粒が叩いていた。
強く降りつけるほどではない。けれど、空は低い雲に覆われ、止む気配もなかった。軒先から落ちる雫は途切れず、井戸の周りには薄い水の膜が広がっている。
ユウトは作業机の上へ防水布を広げ、その中央に封をされた手紙を置いた。
ルミナ村から持ち込まれた、水車小屋方面へ届ける手紙だった。急ぎとは書かれていないが、雨が続けば通常の配達路はさらにぬかるむ。先日整備した森際の旧道を試すには、実際の荷物を持って歩く必要がある。
手紙の四隅を折らないよう布を重ね、細い紐を二重に回す。結び目を引いて緩みがないことを確かめてから、配達鞄の内側へ収めた。
「予備の防水布も入れました。手紙は一番内側です」
リーネは地図と記録板を見比べていた。記録板の表には薄い防水布が張られ、濡れた指でも印を書き込めるようになっている。
「森際の旧道は、ここまでだね」
地図の線は、入口から古い石を過ぎ、水切り溝の近くで止まっている。その先には未確認の道を示す印が残っていた。
「整備済みの主要区間だけを見ます。水切り溝より先へは入りません」
「うん。雨で見え方が変わっても、線を伸ばさないようにするよ」
ポルカは棚の端から雨の窓を見つめ、落ち着かない様子で耳を伏せていた。雨粒が強く窓を打つたび、背中の羽が小さく膨らむ。
「今日は鞄の中でいいからな」
「きゅ……」
ユウトが配達鞄の横を軽く叩くと、ポルカは迷った末に開いた隙間へ潜り込んだ。乾いた布の間から白い首元の毛だけが覗く。
風見鶏亭へ寄ると、セラが布包みと蓋付きの小さな容器を差し出した。
「具入りパンと温かい飲み物。冷える前に飲みな」
「ありがとうございます」
「帰りは真っ直ぐ小屋へ戻らないで、ここへ寄ること。雨の日は、歩いてる間より止まったあとに疲れが出るんだからね」
セラはユウトだけでなく、隣のリーネにも目を向けた。
「二人ともだよ」
「分かってるよ、セラさん」
「返事が軽いねえ」
リーネが苦笑し、布包みを地図鞄へ入れる。ポルカが匂いに気づいて顔を出したが、雨音が屋根を強く打つと、すぐに奥へ引っ込んだ。
森際の旧道へ入る頃には、雨脚が少し強まっていた。
刈られた草は水を含んで暗く沈み、先日見えていた土の色も変わっている。倒木の脇に確保された通行幅には浅い水が流れていたが、靴底が沈むほどではなかった。
ユウトは一歩ずつ足を置き、荷物を背負った状態で路面の感触を確かめた。
「入口付近は、まだ硬いです。ただ、晴れの日より表面が滑ります」
「傾きも書いておくね」
リーネは記録板を胸元で支え、短く印を加えた。濡れた木々の間では風が細く抜け、草の先についた雫を揺らしている。
配達鞄の中から、ポルカが「ぷい」と小さく鳴いた。
「どうした?」
歩みを止めると、布の隙間から耳が現れた。耳と背中の羽が同時に震え、ポルカは道の先ではなく斜面側へ顔を向けている。
直後、木々を渡る音が変わった。
「風向きが変わったね」
リーネが空を見上げた。
「もう少し降りそうです。急がず進みましょう」
大丈夫、まだ間に合う。
そう胸の内で言い聞かせ、ユウトは歩幅を狭めた。
古い石の目印を越え、水切り溝へ近づいたところで、道の色が大きく変わっていた。
広い水溜まりが路面を横切っている。
泥水は浅く見えたが、底は濁っていて見えない。斜面から流れ込む雨水が溝へ届く前に道へ広がり、路肩近くまで覆っていた。
ユウトは足を止めた。
「ここから先、待ってください」
道の脇に、木の根が張り出した少し高い場所がある。雨が直接当たりにくく、足元も硬い。ユウトは防水布を一枚敷き、配達鞄を下ろした。
手紙の包みを確かめ、さらに地面から離れるよう木の根の上へ置く。
「俺が見ます。リーネさんは、そこから水の入り方を記録してください」
「分かった。でも、深いところまで入らないでね」
「はい」
風路読みでは、水溜まりの右側を風が抜けていた。だが、風の通り道と足場の硬さは同じではない。
ユウトは杖先を水へ入れた。
手前は浅い。だが二歩ほど先では、杖が泥へ深く沈んだ。底を押すと、柔らかな土が崩れ、濁りがさらに広がる。
「中央は駄目です。少なくとも、荷物を背負ったまま通る場所じゃない」
今度は水溜まりの縁へ足を置いた。身体の重みを少しずつ掛けると、靴の脇から泥水が染み出す。斜面側からは細い水筋が幾つも流れ込み、水切り溝へ入る前に窪地へ集まっていた。
「水切り溝そのものは流れています。ただ、ここへ入る水の量が多すぎます」
リーネは記録板へ線を書き込んだ。
「流れ込む向きは三つ。水が溜まってる幅は、道のほとんど全部だね」
「直進すれば早いですが……」
距離だけを見れば、数歩で越えられる。
けれど、底の見えない泥へ足を取られれば、転ぶかもしれない。手紙を濡らすだけでなく、同行しているリーネさんまで危険に巻き込む。
ユウトは水溜まりの先から視線を外し、整備済み区間の路肩を見た。
「回ります。倒木側の高い場所を使えば、少し遠くなりますが水を避けられます」
「そっちは狭いよ」
「先に足場を確かめます。通れないなら戻りましょう」
ユウトは杖で落ち葉を払い、路肩の土を一か所ずつ押した。木の根が露出している部分は硬いが、その間には滑りやすい苔がある。足を置く場所を選び、手で枝を避けながら少しずつ進む。
「ここは一人ずつです。俺が先へ出てから来てください」
「うん」
リーネは地図鞄を胸元へ抱え、ユウトが示した足跡へ靴を置いた。記録板が枝へ触れないよう身体を傾け、狭い路肩を慎重に通る。
配達鞄の中では、ポルカが息を潜めていた。
水溜まりを回り込むと、路面は再び硬くなった。ユウトはそこで鞄を下ろし、手紙の包みを確かめる。防水布にも紐にも異常はない。
雨脚もわずかに弱まっていた。
ポルカが鞄から顔を出し、周囲を見回す。
「ここなら出ても大丈夫そうだな」
「きゅ」
ポルカは濡れた地面を嫌うようにユウトの腕を伝い、肩へ登った。リーネが地図鞄から、手紙に添えられたごく小さな包みと、ポルカの小型革鞄を取り出す。
「少しだけ運ぶ?」
「ぽるる」
ポルカは胸を張った。リーネが小包を革鞄へ収め、首と羽の付け根を避けるよう幅広の帯を掛ける。ユウトが留め具と鞄の傾きを確かめた。
ユウトが数歩先で手を差し出すと、ポルカは短く滑空してその腕へ飛び移る。
着地した勢いで羽に残っていた雫が散った。
「よく運べたな、ポルカ」
「きゅ!」
濡れた羽を大きく膨らませながら、ポルカは得意げに胸を張った。
三人が水車小屋方面へ着いた時には、当初の見込みよりかなり時間が過ぎていた。
ユウトは手紙と小包を渡し、遅れた理由を簡潔に伝えた。
「森際の旧道で雨水が溜まっている場所がありました。直進せず、整備済みの区間内を迂回したため遅くなりました」
包みは乾いたままだった。
受け取った相手が封の無事を確かめるのを見て、ユウトはようやく肩の力を抜いた。
速く着くことより、無事に届けること。
当たり前のことのはずなのに、急ぐ理由が目の前にあると、その順番は簡単に揺らぐ。だからこそ、一度立ち止まって確かめる必要があった。
帰り道も同じ迂回を使い、三人は風見鶏亭へ戻った。
「ほら、まず座る」
セラは濡れた外套を受け取り、暖炉に近い席へ三人を追いやった。卓上には豆と根菜の入った温かなスープと、焼き直したパンが並べられる。
ポルカは乾いた布に包まれ、暖炉の方へ尻尾を向けて丸くなった。
「それで、使えたのか」
先に来ていたバルドが、ユウトの報告を待っていた。
「整備済みの主要区間は、条件付きなら使えます。ただ、水切り溝の手前に広い水溜まりができました。中央は泥が深く、荷物を持って通るのは危険です」
リーネが記録板を卓上へ置いた。
「ここです。斜面から水が三方向に流れ込んでいます。路肩側に迂回できる場所はありますが、狭いので一人ずつしか通れません」
「時間は」
「通常よりかなり掛かりました」
ユウトは往路と復路の時刻を伝えた。バルドは記録と地図をしばらく見比べ、短くうなずく。
「雨なら必ず使う道にはしない。天候と荷物を見て選べ」
「はい」
「水の溜まる場所は、追加で手を入れる。ただし、雨が止んでからだ」
森際の旧道は、完成した安全な道ではない。
雨の日に使える場合がある、選択肢の一つになっただけだ。それでも、使える条件と使わない条件が分かったことは大きい。
「食べながら書きな。冷めるよ」
セラに言われ、ユウトはようやく匙を取った。温かなスープが冷えた身体へ落ちていく。リーネもパンをちぎりながら、水溜まりの位置と迂回の幅を地図へ写していた。
風待ち小屋へ戻る頃には、雨は細くなっていた。
ユウトは濡れた雨具を掛け、地図作業壁の前で記録を清書した。所要時間、泥の深さ、水の流入方向、迂回できる範囲。書くべきことはまだ残っている。
机の端には、次の依頼を示す荷物が置かれていた。
視線がそちらへ向く。
手を伸ばしかけたところで、指が止まった。雨具を脱いだあとも、肩の重さが抜けていない。靴を替えても、足の裏には泥の中を探った感触が残っていた。
「ユウトさん、続きは明日にしよう」
リーネが記録板を閉じた。
「でも、整理だけなら」
「今日分はもう分かるように残ってる。清書は逃げないよ」
ポルカも机へ上がり、ユウトの手元に前脚を置いた。そのまま動かず、見上げて「ぷい」と鳴く。
ユウトは次の荷物から目を離した。
「……そうですね。一つずつ片づけるためにも、今日はここまでにします」
ペン先を拭い、記録帳を閉じる。
窓の外では、森際の旧道にも同じ雨が降り続いているはずだった。整えた道にも、使えない場所があり、使える日と使わない方がよい日がある。
届けるためには、歩くことだけでなく、立ち止まる判断も必要だった。




