【第31話】 道を守る手
森際の旧道の入口には、朝から人の声と道具同士の触れ合う音が集まっていた。
ユウトは草の中から覗く踏み固められた土を指し、前日に確認した範囲を一つずつ説明した。
「入口から水切り溝までは歩いて足元を確かめています。水切り溝より先は未確認の道です。今日は、こちらの紐より先へは入らないでください」
低く張った目印紐の向こうでは、濡れた草が風に揺れている。道らしい窪みは続いて見えたが、その下の土がどれほど柔らかいかは分からない。
「風は向こうへ抜けていますが、それだけでは安全とは言えません。足元と水の流れを確認できた区間だけを整えます」
集まったルミナ村の作業参加者たちがうなずいた。
バルドは腕を組み、倒木と伸びた草、水切り溝を順に見渡した。
「聞いたな。勝手に先へ入るな。今日は道を広げる日じゃない。確かめた場所を使えるようにする日だ」
短い言葉だったが、誰がどこまで動いてよいかがはっきりした。
リーネは平らな石の上に地図を広げ、風でめくれないよう四隅を留めた。ポルカがその一角へ前脚を置き、得意げに尻尾を立てる。
「ここから入口近くまでは草刈り。古い石の周りは水切り溝の掃除。倒木は道幅を塞いでいる場所だけ動かすよ」
リーネは地図上の線を指でなぞり、区間ごとに違う印を置いた。
「終わった場所には目印紐を付けるね。作業していないところと混ざらないようにするから、終わっても勝手に次へ進まないで、私かバルドさんに声をかけて」
「三つに分ける」
バルドは参加者たちの顔と持ってきた道具を見比べた。
「草刈りは足の速い者。溝は腰を痛めていない者。倒木は力だけで引くな。トマの指示を聞け」
トマは地面へ、てこと縄、木片を並べた。
「倒木を持ち上げるんじゃない。少し浮かせて、下へ木を噛ませる。縄はこっちへ掛けろ。向きを間違えると斜面へ転がるぞ」
太い幹には雨染みが残り、片側が土へ沈んでいた。力任せに引けば動きそうにも見えたが、根元側は斜面へ向いている。
「補修材も雑に置くな。泥へ落とせば使えなくなる」
「分かりました。俺が運びます」
ユウトはすぐに木片の束を持ち上げた。
倒木の位置を確認するのも、水切り溝の状態を知っているのも自分だ。ならば、必要な物を運ぶ役も自分がやった方が早い。
そう考え、木片を古い石の近くへ置いたあと、今度は草をまとめる縄束へ手を伸ばした。
ポルカは細い目印紐をくわえ、リーネが指した作業済みの場所まで運んでいた。紐を置くたびに「きゅ」と鳴き、褒められるのを待つように振り返る。
「そこ。上手だよ、ポルカ」
「ぽるる」
胸を張ったポルカは次の紐へ駆けていった。
草刈りが始まると、刃が茎を払う乾いた音が続いた。刈られた草は道の外へ寄せられ、隠れていた地面が少しずつ姿を現す。
ユウトは土の沈み方を確かめながら草束を運び、水切り溝の班へ補修材を渡し、それから倒木の縄へ加わった。
「この向きなら、路肩側へ寄せられます。ただ、根元の下が柔らかいです」
「てこを入れる場所だけ示せ」
トマに言われ、ユウトは幹の周囲を回った。風路読みでは倒木の脇を風が抜けている。しかし、幹の下には枯れ葉が厚く溜まり、その下の地面は見えない。
枝で枯れ葉を払い、硬い土の場所を確かめる。
「ここなら沈みにくそうです。こちら側は避けた方がいいです」
トマがてこを差し込み、参加者二人が縄を持った。
「合図で引け。急に力を入れるな」
木が軋んだ。
低く重い音が森の縁へ響いた瞬間、ポルカが羽を膨らませた。くわえていた紐を落とし、「ぷい」と鳴いてリーネの地図鞄の陰へ飛び込む。
「ポルカ、そこで待ってていいからね」
リーネは鞄を道具から離れた木陰へ移した。ポルカは蓋の隙間から顔だけを出し、軋む倒木を警戒している。
ユウトは縄を握り直した。
「もう少しです」
「まだ引くな」
トマの声に合わせ、いったん力を緩める。木片を幹の下へ差し込み、再び縄を引く。倒木は少しずつ土から離れ、路肩側へ向きを変えた。
何度目かの合図で、ようやく人が通れるだけの幅ができた。
ユウトは息を整える間もなく縄を置き、残っていた補修材へ向かった。
「次は溝へこれを――」
一歩踏み出したところで、足元が揺れた。
地面が動いたのではない。力を抜いた脚が、思ったより遅れて身体を支えたのだ。ユウトは木片の束を抱え直したが、視界の端がわずかに白くなった。
「ユウトさん、置いて」
リーネの声が近くで止まった。
「大丈夫です。これを運んだら――」
「大丈夫じゃないよ。さっきから草束も縄も補修材も運んでる。倒木の確認までユウトさんがやるって決めたのに、それ以外まで引き受けてる」
リーネは記録板を閉じ、ユウトの前へ立った。
「休んで。今のまま歩いたら、道を直す側が怪我をする」
ユウトは反射的に作業場所を見た。水切り溝にはまだ泥が詰まり、草刈りも半分ほど残っている。
「でも、場所を知っているのは俺です」
「だから確認する役を任せてるんだよ。全部運ぶ役じゃない」
「役割を崩すな」
バルドの低い声が重なった。
「お前が倒れれば、危険箇所を見る者がいなくなる。持てるから持つ、では仕事にならん」
ユウトは木片の束へ目を落とした。
自分が手を止めれば、誰かの負担が増えると思っていた。だが、すでに周囲には作業を担う人たちがいる。ユウトが抱えている木片も、別の参加者が手を伸ばして受け取ろうとしていた。
「……お願いします」
束を渡すと、腕から重さが消えた。
「セラのところへ行け」
バルドはそれだけ言って、草刈りの進み具合を見に戻った。
道から少し離れた木陰では、セラが布包みと木の杯を並べていた。
「やっと来たね。まず食べな」
杯には香草の匂いがする温かな飲み物が注がれ、布包みには豆と干し肉を挟んだ具入りパンが入っていた。
「まだ作業の途中ですが」
「途中だから休むの。終わってからじゃ遅いよ」
セラは当然のようにパンを差し出した。
ユウトが腰を下ろすと、地図鞄の陰に隠れていたポルカが様子を窺いながら近づいてきた。大きな音はまだ続いていたが、ユウトの膝へ前脚を掛けると、少し迷ってから隣へ丸くなる。
「怖かったな」
「きゅ……」
羽はまだ膨らんでいる。ユウトは無理に撫でず、そばへ手を置いた。
木陰から見る作業場では、ユウトが運ぶつもりだった補修材を二人が分けて運んでいた。草束は別の者が縄でまとめ、水切り溝では泥と枯れ葉が少しずつ掻き出されている。
自分が座っていても、道は整っていく。
むしろ一人で抱え込んでいた時より、作業は途切れず進んでいた。
「休むのも、役目のうちなんですね」
「今さら気づいたのかい」
セラは笑い、空いた杯へ飲み物を足した。
「疲れた人間が無理して手を出すと、周りはその人まで気にしなきゃならないからね」
ユウトは具入りパンをかじった。冷めても柔らかく、塩気のある豆が歩き疲れた身体へ馴染んでいく。
隣ではポルカがパンの端を見つめていた。
「これは味が濃いから駄目だ」
「ぷい」
不満そうに耳を伏せたポルカへ、セラが干し林檎の小片を渡した。ポルカは受け取ると、ようやく羽を畳んだ。
休憩を終えたユウトは、荷物には触れず倒木の周囲へ戻った。
地面の硬さと風の抜け方を改めて確認し、路肩へ寄せる向きだけをトマへ示す。
「こちらへ動かせば道幅を取れます。ただ、斜面側へ押しすぎると転がるかもしれません」
「分かった。あとはこっちでやる」
トマと参加者たちは、てこと縄を使い、倒木を少しずつ路肩へ寄せた。ユウトは手を出さず、足元が沈んでいないか、幹の向きが変わりすぎていないかだけを見た。
水切り溝では、詰まっていた泥と枯れ葉が取り除かれた。溝の崩れた縁には補修材が当てられ、水が道の外へ抜ける形が戻っていく。
「ここまでが作業済み」
リーネが目印紐を結び、地図へ印を加えた。
「その先は未整備。水切り溝より向こうは未確認の道。線をつなげないからね」
「お願いします」
ポルカも最後の目印紐をくわえ、慎重に終了地点まで運んだ。近くで木が軋むと一度足を止めたが、音が収まるのを待ち、紐を置いて戻ってくる。
「よく運べたな、ポルカ」
「きゅ!」
胸元の白い毛を膨らませた姿に、作業参加者たちから小さな笑いが漏れた。
昼を過ぎる頃、主要区間の作業が終わった。
全員で入口から歩き、刈られた草の下に現れた路面を確かめる。倒木の横には人が通れる幅があり、水切り溝には泥水の代わりに細い風が通っていた。
ユウトは溝へ少量の水を流してもらい、その行方を見守った。水は道へ戻らず、補修された縁に沿って外へ抜けていく。
「晴れた日の状態では流れています」
ユウトはしゃがんだまま言った。
「ただ、雨の日に荷物を持って歩いた時、路面がどれだけ沈むかはまだ分かりません。今の段階では、試せる状態になったところまでです」
「使えると決めるのは、そのあとだな」
バルドが答えた。
「はい。雨の時に実際の配達荷物を持って、溝と足元を確かめます」
リーネは作業済みの区間と、その先の空白を地図へ分けて残していた。整った道の線は水切り溝の近くで止まり、その先には未確認の印が続いている。
ユウトは集まった人たちへ向き直った。
「ありがとうございました。俺一人では、ここまでできませんでした」
「最初から一人でやる仕事じゃない」
バルドは短く返した。
草を刈った者が道具をまとめ、溝を掘った者が泥の付いた手を洗い、トマはてこと縄の傷みを確かめている。セラは残った飲み物を配り、リーネは最後の記録を書き足していた。
郵便屋が歩く道ではある。
けれど、その道を使うのは手紙を待つ人であり、荷物を預ける人であり、谷を行き来する人たちだった。
ポルカがユウトの肩へよじ登り、作業済みの道を見渡して「ぽるる」と喉を鳴らした。
森際の旧道は、まだ雨の日に使えると決まったわけではない。水切り溝より先には、確かめていない道も残っている。
それでも入口から水切り溝までの主要区間には、草を刈った跡と、泥を掻き出した溝と、何人もの靴跡が残っていた。
一人の足跡ではない。
道を守るために集まった人たちの足跡だった。




