【第28話】 歩いて確かめる地図
朝の風待ち小屋で、ユウトは配達を待つ段から一通の手紙を取り出した。
ミルネル丘で預かった、老婦人宛ての封済みの返事だ。封蝋に欠けがないことを確かめ、防水布へ包んで配達鞄の内側へ収める。
机の向かいでは、リーネが地図を広げていた。白樺の小道へ入る曲がり角には、昨夜つけた小さな点が残っている。
「今日は、ここも確かめるんですよね」
「うん。古い地図だと、石垣の手前から入ることになってる。でも、前に歩いた時の記憶だと、もう少し先だった気がするんだ」
リーネは明るく言ったものの、指先は点の周りを何度もなぞっていた。
暖炉の横で硬焼きパンをかじっていたポルカが、鞄の留め具の音に反応して顔を上げる。
「ポルカ、今日は軽い荷物だけだぞ」
「きゅ」
胸を張ったポルカは、ユウトの肩へよじ登った。首元に柔らかな重みが乗る。
三人は朝霧の残る道をミルネル丘へ向かった。
白樺の小道までは、何度も歩いた道だった。土には荷車の細い轍が残り、道端の草も人の足で低く踏まれている。
やがて、腰ほどの高さの石垣が見えてきた。
「古い地図だと、この手前です」
リーネが立ち止まり、石垣の脇を指した。
確かに、草の間に細い隙間がある。白樺の根元を縫うように、浅くくぼんだ土が奥へ続いていた。
「道の跡には見えますね」
「でしょ? 完全に間違いってわけじゃなさそう」
ユウトはすぐには進まず、地面へしゃがんだ。
土は柔らかいが、近頃踏まれた靴跡はない。草の倒れ方もばらばらで、人が繰り返し通った形には見えなかった。
それでも道そのものは途中まで残っている。
「行けるところまで確かめましょう。ただ、戻る時間も見ておきます」
「うん。無理そうなら引き返そう」
三人は細い跡へ入った。
最初のうちは歩きやすかった。白樺の間を抜ける風も穏やかで、地面には古い敷石らしい平らな石がところどころ顔を出している。
リーネは歩幅を測りながら、地図の余白へ印を書き足した。
「昔は本当に使われてた道だと思う。石も並べてあるし」
「今も通れるかは別ですね」
「そこが問題だよね」
ポルカがユウトの肩で耳を震わせた。少し先を見つめ、短く「ぷい」と鳴く。
道は急に草深くなった。
膝まで伸びた草の向こうで、敷石は途切れている。さらに進むと、低木が道を塞ぎ、足元には倒れた木片が半ば土へ埋まっていた。
ユウトは木片の周囲の草を払った。
先端が尖り、片側にかすかな刻みがある。古い道標の一部にも見えるが、腐食が進み、どちらを向いて立っていたのかは分からない。
「これが道標なら、地図を描いた人は、この向きを見て曲がり角を決めたのかも」
リーネが木片を覗き込む。
「でも、倒れたあとに動いた可能性もあります」
ユウトは周囲へ目を凝らした。
風路読みで、木々の隙間を抜ける風と湿った草の向きを追う。右手には低い斜面、左手には水のたまりやすい窪地がある。人が通るなら斜面沿いに続きそうだったが、そこにも足跡はない。
獣の細い跡が一筋あるだけで、靴底の痕跡も、刈られた枝も、踏み固められた土も見つからなかった。
少し先へ回り込んでも、道の続きは現れない。
「どうですか?」
「風だけなら、斜面沿いに抜けられそうです。でも、人が通った跡がありません。地面も崩れやすい」
能力だけを頼りに進めば、どこかへ出るかもしれない。だが、手紙を預かった配達中に試す道ではなかった。
ユウトは立ち上がった。
「引き返しましょう。大丈夫、まだ間に合う。石垣の先の道から回ります」
リーネは木片と途切れた道を見つめたあと、地図を閉じた。
「うん。戻ろう」
元の道へ戻り、石垣の先から白樺の小道へ入る。こちらには新しい足跡があり、枝も人の肩に当たらない高さまで払われていた。
ただし、引き返した分だけ時間は過ぎている。
ミルネル丘へ着いた頃には、予定より日が高くなっていた。羊の鳴き声が風に流れ、受取人は柵のそばで干し草を束ねていた。
ユウトは息を整えてから頭を下げた。
「遅くなってすみません。途中で、古い地図にだけある道を確かめたのですが、先が途切れていました。引き返して別の道を回りました」
言い訳に聞こえないよう、見たことだけを伝える。
「手紙は濡れていません。封も預かった時のままです」
防水布を開き、封済みの返事を差し出すと、受取人は封蝋を確かめて受け取った。
「昼を越えたわけでもない。羊を追う予定にも響いてないよ」
「ありがとうございます」
「道が消えてるなら、次から使わなければいい。分かっただけでもましだろう」
大きな支障はなかった。その言葉にユウトは安堵したが、隣のリーネは地図鞄の紐を握っていた。
「ごめんなさい。私の地図を使わなければ、もっと早く着けたんですけど」
笑顔を作っている。いつもの明るい声だったが、少しだけ高い。
「昔の道まで載せておこうなんて欲張ったのが悪かったかな。次は、消えた道をきれいに消しておきます」
帰路でも、リーネは何度か同じように笑った。
石垣が見えるところまで戻った時、ユウトは足を止めた。
「リーネさん」
「何?」
「地図を信じて入ると決めたのは、俺も同じです」
「でも、描いたのは私だよ」
「だからこそ、今日確かめられました。間違っていたなら、実際に歩いて直せばいいと思います」
リーネは返事をせず、白樺の幹へ視線を向けた。
ポルカが彼女の地図鞄へ飛び移り、蓋の隙間へ鼻先を押し込む。やがて身体まで潜り込み、羽と尻尾だけを外へ出した。
「ポルカ、そこに入ると地図が曲がるよ」
「ぽるる」
注意する声にも、いつもの勢いがなかった。
しばらくして、リーネは鞄を抱え直した。
「悔しいんだ」
笑みが消えていた。
「古い地図に線が残ってたから、道があるって思い込んだ。自分では確かめてないのに、確かな道みたいに描いてた。ユウトさんの仕事にも影響した」
「少し遅れました。でも、届けられました。それに、次に同じ道へ入らずに済みます」
「うん。だから、消して終わりにはしたくない。どこまで歩いて確かめたのか、分かる地図にしたい」
「風待ち小屋へ戻ったら、一緒に考えましょう」
枝音の集落へ寄り、二人は工房にいたトマへ腐った木片の話をした。
トマは鉋を置き、刻みの形や倒れていた向きを細かく尋ねた。
「道標だったとしても、倒れたあとに風や獣で向きが変わることはある」
「それで、古い地図に違う曲がり方が残った可能性はありますか?」
「ある。だが、見てもいない物を決めつけるな」
トマはぶっきらぼうに答えた。
「根元が残ってるか、杭穴がどこにあるかで話は変わる。現物を見てからだ」
「分かりました。原因はまだ決めません」
「その方がいい。地図も道標も、古いから正しいとは限らん」
風待ち小屋へ戻ると、リーネは作業机いっぱいに地図を広げた。
完成した部分だけでなく、薄い線や書きかけの注記が残る、未完成の地図だった。
「実際に歩いた道と、まだ確かめていない道を、同じ線で描いていたのがよくなかった」
「線の形を分けますか」
「うん。確かめた道は一本の線。まだ確かめていない道は、途切れた線にする」
ユウトは記録帳を開いた。
「呼び方も決めておいた方が、配達前に確認しやすいですね」
「実際に歩いた方を……確認済みの道」
「まだ確かめていない方は、未確認の道でどうですか」
リーネは一度口の中で繰り返し、頷いた。
「分かりやすい。確認済みの道と、未確認の道。地図の隅に印の意味も書いておくよ」
ポルカが鞄から這い出し、広げた紙の上へ乗ろうとした。
「ポルカ、真ん中はだめだぞ」
「きゅ」
ユウトが端を指すと、ポルカはそこへ移動し、前脚で紙を押さえた。役目を任されたと思ったらしく、胸を張って動かない。
「そこなら助かるよ」
リーネが言うと、ポルカは喉を小さく鳴らした。
リーネは現在の道として描いていた石垣手前の線を消し、石垣の先へ正しい線を引き直した。途中で途切れた古道は途切れた線で描き直し、未確認の道を示す印を付ける。
夕方、風待ち小屋を訪れたバルドへ、ユウトは遅れた経緯を報告した。
「古い地図に残る道へ入りましたが、途中で途切れていました。引き返したため、到着が少し遅れました。手紙は無事に届けています」
リーネも地図を差し出した。
「私が、確かめていない道を普通の道と同じように描いていました。今後は確認済みの道と未確認の道を分けます」
バルドは修正された箇所をしばらく見ていた。
「失敗は軽くない」
低い声に、リーネの肩がわずかに固くなる。
「だが、隠せば次も誰かが迷う。報告して、分け方まで決めたなら、同じ失敗を減らせる」
バルドは地図を返した。
「約束は軽くない。だから、道も確かめたものと、そうでないものを混ぜるな」
「はい」
「分かりました」
窓の外が暮れ始めても、机の上には地図が広がったままだった。
正しい線へ直したのは、白樺の小道の一か所だけだ。見渡せば、細い線の中には、いつ誰が歩いたのか分からない道がまだ残っている。
ユウトは次の配達予定と地図を見比べた。
「これからは、出る前に確認済みの道か、未確認の道かを必ず見ましょう」
「うん。未確認の道を通る時は、配達に余裕がある日だけにしよう」
ポルカが紙の端で「ぷい」と鳴いた。
リーネは新しい印をもう一つ描き加えた。失敗した線は消えたが、歩いた事実まで消えたわけではない。途切れた道も、引き返した時間も、次に迷わないための記録へ変わっていく。
ユウトは地図全体を見渡した。
道は、紙の上だけでは完成しない。
実際に歩き、確かめ、間違いを直すたびに、少しずつ暮らしに近い形へ育っていくのだ。




