【第29話】 壁に広がる三つの道
朝の風待ち小屋では、作業机の木目がほとんど見えなくなっていた。
大きな地図の上に配達記録が重なり、その脇には集落ごとの札と確認日札が並んでいる。ユウトが記録帳をめくるたび、紙の端が別の紙へ潜り込み、さっきまで見えていた道が隠れた。
「ルミナ村から水車小屋までの記録は……この下ですね」
「待って。そこを持ち上げると、ミルネル丘の地図がずれる」
リーネが両手で地図を押さえる。反対側ではポルカが紙の端に前脚を置き、任された仕事を果たそうと胸を張っていた。
だが、ユウトが一枚抜き取ると、その下から別の確認日札が滑り出した。
「きゅ」
ポルカが慌てて札へ飛びつく。軽い札は尻尾に押され、机の端から床へ落ちた。
「紙が多すぎるね」
リーネが苦笑した。
「配達路を全部見ようとすると、机だけでは無理がありそうです」
ユウトは床の札を拾い、元の束へ戻した。
昨夜修正した白樺の小道だけなら、一枚の地図で足りた。だが、風渡りの谷全体へ目を向けると、細い道は何本にも枝分かれしている。配達記録も日付ごと、集落ごとに分かれており、地図の線と照らし合わせるだけでも紙を何度も入れ替えなければならなかった。
「まず、分かるところから一つずつ片づけましょう」
「うん。記憶だけで決めないようにしよう」
ユウトは自分が歩いた記録を日付順に拾った。
ルミナ村への道は何度も通っている。枝音の集落までの道も、晴れの日だけでなく、小雨の中を歩いた記録が残っていた。日付、天候、道の状態を読み上げると、リーネが地図の線を確認済みの道へ直していく。
一方で、記録に道順が書かれていても、いつ歩いたのか分からないものは残った。
「この丘越えの線、私が前に聞き取りで描いたものだと思う」
「実際に歩いた記録はありませんね」
「じゃあ、未確認の道のまま」
リーネは迷わず途切れた線へ描き直した。
古い地図に太く残っている道でも、現在の状態が分からなければ確認済みにはしない。誰かが通れると言っていた道も、時期や天候が記録されていなければ、注意書きを添えて未確認のまま残した。
作業が進むにつれ、別の問題が見えてきた。
「この浅瀬、夏に渡った記録はあります」
ユウトは川沿いの記録を指で押さえた。
「でも、春の増水時は避けたって書いてあるね」
「秋の雨の後も水が深くなっていました。道そのものがなくなるわけではありませんが、いつでも使えるとは言えません」
別の記録には、ミルネル丘へ向かう斜面が載っていた。乾いた時期は歩きやすいが、雨が続くと靴が沈むほどぬかるむ。冬の霜が解ける頃にも崩れやすいという書き込みがある。
確認済みの道へ入れるには不安があり、未確認の道と呼ぶには実際に何度も歩いていた。
リーネは炭筆の先を止めた。
「通れるか、通れないかだけじゃ足りないね」
「時期を選ぶ道があります」
「それなら、別に分けよう。季節によって使えない道を、確認済みの道に混ぜると危ないから」
リーネは地図の余白へ新しい印を試し描きした。一本の線へ、小さな葉のような印を一定の間隔で添える。
「季節限定の道、っていうのはどう?」
ユウトは記録帳の該当箇所を見比べた。
「分かりやすいと思います。通れた季節と、避ける条件も一緒に残しましょう」
浅瀬には夏の渇水期、斜面には乾いた時期と書き添える。雨の後は使わない、増水時は別の橋へ回るという注意も付けた。
同じ道でも、季節や天候で姿が変わる。分類を増やしたことで、かえって判断はしやすくなった。
昼近くになる頃には、机の上の紙はさらに増えていた。
ユウトが配達記録をめくるたび、地図を持ち上げ、確認日札を移し、注意書きの紙片を探さなければならない。
「これを毎朝やるのは大変ですね」
「地図を広げたままにできる場所があればいいんだけど」
二人の視線が、棚の向かいにある空いた壁へ向いた。
以前は馬具を掛けていたらしく、古い釘穴と黒ずみが残っている。広さは十分だが、そのまま紙を貼れば湿気や木のささくれで地図を傷めそうだった。
「トマさんに相談してみましょう」
午後、三人は必要な寸法を書いた紙を持ってトマの工房を訪れた。
トマは話を聞くと、壁へ留める方法をいくつか尋ねた。
「釘で地図を打つのは避けたいです。書き直す時に外せる形がいいです」
「確認日札と注意書きも並べたいんだ」
リーネが付け加える。
トマは腕を組んだ。
「壁を見なきゃ決められん。余り板はあるが、長さが足りるかも分からん」
風待ち小屋へ戻ると、トマは壁を叩き、傷んだ箇所を確かめた。下の方は湿気で少し色が変わっていたが、上部は枠を固定できる状態だった。
「まず掃除だ。埃の上から何を付けても保たん」
三人は壁際の箱を移し、乾いた布で板壁を拭いた。ユウトが高い位置の埃を落とし、リーネが古い釘穴の場所を記録する。ポルカは渡された短い紐をくわえ、作業机と壁の間を何度も往復した。
トマは余っていた細い板を並べ、使える長さを測った。一本では足りず、二本を継ぐ必要がある。ユウトが押さえ、リーネが寸法を読み上げ、トマが印を付けた。
「雑に押さえるな。ずれたら地図も斜めになる」
「はい」
「ユウトさん、右を少し上」
「これくらいですか」
「うん、そこで止めて」
板を削り、紐を通す穴を開け、地図を挟める簡単な枠を作る。すぐに終わる作業ではなく、日が傾く頃までかかった。
最後に大きな地図を中央へ掛け、その横に確認日札を並べる細い紐を張った。下には道ごとの注意書きを差し込む浅い受けを付ける。
リーネが一歩下がり、壁全体を見渡した。
「ここなら、配達前に三つの区分を一度に見られるね」
「地図だけでなく、確認する日や注意点も同じ場所で見られます」
ユウトは壁の用途を記録帳へ書き込んだ。
「地図作業壁、と呼びましょうか」
「いいね。作業中の地図も、確認待ちの札もここへ集められる」
ポルカが紐をくわえ、余った留め札を運んできた。ところが、壁際で足を滑らせ、札を床へ落としてしまう。
「きゅ……」
耳を伏せたポルカは、落ちた札を見下ろした。
ユウトが拾おうと手を伸ばす前に、ポルカは床へ降りた。札の端をくわえ直し、今度はゆっくりと壁の下まで運ぶ。
「そこだよ、ポルカ」
リーネが受けの端を指す。
ポルカは前脚を掛け、札を押し込んだ。少し斜めになったものの、札は落ちずに収まった。
「やり直せたな」
「きゅ!」
「ちゃんと運べたね」
褒められたポルカは耳を立て、白い胸元を大きく張った。
夕方、バルドが風待ち小屋を訪れた。
壁いっぱいに広がった地図を見ると、何も言わずに確認済みの道、未確認の道、季節限定の道を順番に目で追った。
「古い線を、全部消したわけではないんだな」
「現在の状態を確かめていないものは、未確認の道として残しています」
ユウトが答えると、リーネも頷いた。
「昔の記録だけで、今も通れるとは決められないので」
バルドは地図の北側を指した。
「森の際に、昔は細い道が続いていたという記録がある」
持ってきた古い紙には、木立の端を縫うような線が薄く描かれていた。だが、日付も、最後に誰が歩いたかも分からない。
「今も道があるとは限らん。倒木で塞がっているか、森に戻っているかもしれない」
「確認するまでは、未確認の道ですね」
「そうしろ。古いというだけで信用するな」
リーネは正式な道名を書かず、地図の端へ途切れた線を引いた。その横に、森の際に残る道、現地確認が必要、と小さく添える。
ユウトは配達予定と天候の記録を見た。
急ぎ便のある日に試す道ではない。雨の直後も避けた方がいい。古い記録と地図だけで進むのではなく、時間を取り、足元と周囲を確かめながら歩く必要がある。
「次に確認する順番へ入れておきます。ただ、配達に余裕がある日を選びます」
「うん。昔の線がどこまで残っているか、実際に見てから描こう」
リーネが確認日札を一枚取り、地図作業壁の未確認の欄へ掛けた。
羊柵修理の返答を待つ札も、返事待ちの場所に残っている。そちらはまだ動かせない。修理も運び込みも、必要な返事が届いてからだ。
壁の中央では、谷の道が三つの形に分かれていた。
確かめた道。まだ確かめていない道。そして、時期を選んで使う道。
紙の上に線が増えただけではない。いつ歩いたのか、どんな天候だったのか、何に気をつけるべきかが、誰の目にも見える形で並んでいる。
ポルカが地図作業壁の下へ座り、自分が運んだ札を見上げて「ぽるる」と喉を鳴らした。
ユウトは森の際に残る細い線へ目を向けた。
まだ、そこに道があるとは言えない。
だからこそ、次に歩くべき場所が分かる。
風待ち小屋の壁には、完成した地図ではなく、確かめながら育てていく谷の道が広がっていた。




