【第17話】 川辺へ届いた手紙
朝の風待ち小屋には、川の方角から冷たい風が入り込んでいた。
ユウトは机の上を片づけ、棚の端に置かれた保留郵便箱を開けた。乾いた布の間には、古い封筒が昨日と変わらない姿で収まっている。封蝋の欠けも、紙の端の傷みも増えてはいなかった。
布ごと持ち上げ、さらに防水布で包む。紐を強く締めすぎれば紙を傷めるため、包みがずれない程度に二重に結んだ。それから配達鞄の一番奥へ入れ、他の道具と擦れないよう仕切りを挟む。
現地で受取人だと確認できた場合に出直さず届けられるよう、手紙は封を守ったまま持参することにした。関係が確かめられなければ、取り出さずにそのまま持ち帰る。
「家名が同じでも、関係が確かめられなければ持ち帰ります」
地図を広げていたリーネが頷いた。
「本人が亡くなっていた場合も、家族だからというだけで渡さず、どんな関係だったか聞くんですよね」
「はい。水車小屋の暮らしを知っているかも確かめます」
古い手紙だからこそ、急いでよい理由にはならない。長く待たせたうえに、違う相手へ渡すことだけは避けたかった。
ポルカには、小さく束ねた予備紐だけを背負わせた。鞄の位置と羽の付け根を確かめると、ポルカは一度身体を震わせ、それから胸を張った。
「重くないか?」
「ぽるる」
「今は元気そうですね。でも、川の近くは音が大きいかもしれません」
リーネの言葉に、ポルカは意味が分からないまま耳を傾けていた。
三人は朝霧の残る道を、水車小屋の方角へ歩き始めた。
古い地図に描かれた道は、川に沿って緩やかに曲がっている。だが実際の川のそばの道は、地図よりもずっと不安定だった。
川岸の一部が崩れ、流れが以前より陸側へ寄っている。背の高い草に覆われた地面も、杖の先で押すと水が浮いた。見た目だけでは、乾いた土との違いが分かりにくい。
ユウトは足を止め、風路読みに意識を向けた。
川面を滑った風は冷たく、低い場所へ集まっている。湿った土から上がる匂いも濃い。しかし、それだけで足場を決めることはできなかった。
靴先で草を分け、土を軽く踏む。沈み方を確かめ、石の位置を一つずつ探した。
「ここは地図の線より上を通ったほうがよさそうです」
ユウトが斜面側を示すと、リーネは現在地を見比べた。
「川筋が変わった分、古い道が削られたんですね」
彼女は紙の上に細い補助線を引き、歩いた位置へ短い印を付ける。少し先には川底の石が見える浅瀬があり、そこも流れの幅と岸の高さを確かめて書き込んだ。
「浅いけど、増水したら使えませんね」
「雨の翌日は避けたほうがいいでしょう」
ぬかるむ道へ入るたび、ポルカの耳と羽が細かく震えた。最初は風に反応しているだけかと思ったが、足元の草を確かめると、どこも根元が黒く濡れている。
やがて川音が急に大きくなった。
「きゅっ」
ポルカは身を縮め、ユウトの脚をよじ登り、襟元へ潜り込んだ。爪が服へ引っ掛かり、小さな身体が首筋へ押しつけられる。
「大丈夫だ。無理に出なくていい」
背負わせていた予備紐を外し、配達鞄へ戻す。ポルカは顔だけを出したが、川を見た途端にまた隠れた。
「怖いものは仕方ありませんね」
リーネは声を落とし、地図へ新しい印を付けた。
少し先の低地でも、ポルカの羽が襟元の中で震えた。ユウトはその反応だけを頼りにせず、斜面の草と土を調べる。そこには細い水の通った跡があり、一歩踏み込めば靴が深く沈みそうだった。
三人は遠回りをして、白い石の多い高みを進んだ。
「この印は、ぬかるみですか?」
「はい。季節によって広がるかもしれないので、範囲はぼかしておきます」
地図へ残る線はまだ細い。それでも、机の上で想像した線より、歩いた足の重さを持つ線になっていた。
川が大きく曲がる場所で、古い板を渡した小橋が見えた。
幅は人が一人通れるほどで、両側に低い木枠がある。流されずに残ってはいたが、中央の板は黒ずみ、端には苔が付いていた。
ユウトは荷物を降ろさず、まず杖で板を押した。二枚目は固かったが、中央近くの一枚は鈍い音を立てて沈んだ。
「ここは踏まないほうがいいですね」
しゃがんで裏側を覗くと、板の縁が柔らかく崩れていた。木枠も一部が緩んでいる。
「端の板は?」
「こちらはまだ持ちそうです。ただ、一人ずつ渡りましょう。間を空けて、木枠には体重をかけないでください」
ユウトは配達鞄を胸側へ抱え直した。ポルカは襟元から出ず、白い毛先だけを覗かせている。
丈夫な板を選び、足を置くたびに沈みを確かめる。川の音が真下から響いたが、急がず端まで渡った。
続いてリーネが、地図鞄を身体へ寄せながら同じ場所を進む。最後の一歩を踏み終えると、息を吐いて振り返った。
「通れはしますけど、配達路としては不安ですね」
「荷物が重い日や、雨のあと は避けるべきです」
リーネは橋の位置と傷んだ板の数を記録した。川の曲がり、水車小屋までの距離、周囲の目印も書き加えてから、小さく名称を添える。
「この場所は、川沿いの小橋として記録します」
ユウトは黒ずんだ板をもう一度見た。
場所が分かれば、修理を頼むこともできる。ただし、板を替えるには材料も技術も必要だ。自分たちだけで手を出すべき仕事ではなかった。
川沿いの小橋を越えてしばらく歩くと、水車の回る重い音が聞こえてきた。
水車小屋は川辺の石組みの上に建ち、古い水車がゆっくりと水を受けている。その先の坂を上がった場所に、一軒の家があった。
戸を叩くと、年を重ねた女性が姿を見せた。
ユウトは名乗り、すぐには配達鞄を開かなかった。まず、古い家名について尋ねる。
「その名なら、私の父の家です」
女性は驚いたように目を細めた。
「父は水車小屋のそばで育ちました。川が大きくあふれた年に、この坂の上へ家を移したんです」
「お父様のお名前を伺ってもよろしいですか」
女性が答えた名は、封筒にかろうじて残っていた文字と一致していた。
ユウトはさらに、古い水車小屋での暮らしについて尋ねた。女性は、父が水車の軸へ油を差していたこと、増水の夜には家族で粉袋を高い棚へ運んだこと、移ったあとも川音を聞くため坂を下りていたことを静かに語った。
「父は、もう十年以上前に亡くなりました」
その言葉を聞いてから、ユウトは配達鞄を開けた。
防水布をほどき、乾いた布に包まれた封筒を取り出す。外側に残る家名と宛名を女性に示すと、彼女は両手を口元へ寄せた。
「この字……父の名前です」
「差出人と内容は確認していません。封も開けていません」
ユウトは封筒を手元に残したまま言った。
「お父様の家に残るご家族として、この手紙を受け取りますか」
女性はしばらく封蝋を見つめ、それから深く頷いた。
「受け取らせてください」
ユウトは両手で手紙を差し出した。
女性も両手で受け取った。すぐに封を切ることはせず、古い品へ触れるように、そっと胸元へ抱く。
「長い間、届けられずに申し訳ありません」
言いかけたユウトへ、女性はゆっくり首を振った。
「今だったから、受け取れたのかもしれません」
その目は封筒へ向けられていた。
「父の声も、水車の音も、いつの間にか思い出さない日が増えていました。でも、この手紙を見たら、粉まみれの手で私の髪を撫でてくれたことまで思い出しました」
手紙の中に何が書かれているのか、ユウトには分からない。
それでも、封を開ける前から届いたものがあることだけは分かった。
帰り道では、リーネが何度も立ち止まり、記録を整理した。
浅瀬、斜面へ迂回した場所、草に隠れたぬかるみ、川沿いの小橋の傷んだ板。古い地図の線を消すのではなく、その脇へ現在の川筋と歩ける経路を加えていく。
「これで、未確認の線ではなくなります」
風待ち小屋へ戻ると、リーネは机に地図を広げた。実際に歩いた線を整え、注意書きを添える。
「この経路は、川沿いの道として残します。雨のあと は使わないことと、小橋の補修が必要なことも書いておきます」
ユウトは記録表へ、古い手紙の配達完了を書き込んだ。受取人が故人の家族であること、家名と水車小屋での暮らしを確認したことも残す。
続けて、川沿いの小橋の橋板が腐っていると記した。
「この修理は、トマさんに相談したほうがいいですね」
「板の厚さも、支えの状態も見てもらう必要があります」
棚には、まだ届けていないミルネル丘宛ての返答が残っている。羊柵の修理も、道標修理も終わってはいない。
一つの配達が終わっても、仕事は静かに続いていく。
ポルカはようやく襟元から離れ、机の上へ降りた。空になった予備紐の鞄を見つけると、何も運ばなかったことを気にするように耳を伏せる。
「今日は隠れていて正解だったよ」
ユウトが指先で机を軽く叩くと、ポルカは顔を上げた。
「怖い道で無理をしないのも、配達のうちです」
リーネの言葉に、ポルカは少し考えるように首を傾げ、やがて小さく胸を張った。
窓の外からは、遠い川音が風に混じって届いていた。
地図には新しい道が一本増え、保留郵便箱には空いた場所ができている。
長く行き先を失っていた手紙は、故人を覚えている家族の手へ渡った。
遅れた時間を取り戻すことはできない。それでも便りは、忘れかけていた記憶へ続く道を、今の暮らしの中に残していった。




