【第16話】 届かなかった手紙
朝の風待ち小屋には、乾いた木と紙の匂いが残っていた。
新しく仕切られた棚には、手紙、小包、集落間依頼がそれぞれ収まり、昨日までよりも仕事場らしい静けさがある。ユウトは記録表を一つずつ確かめたあと、手紙棚の端に置かれた古い封筒へ目を向けた。
他の手紙とは違い、何も書かれていない札が添えてある。
ユウトは机に乾いた布を広げ、両手で封筒を持ち上げた。黄ばんだ紙は角が柔らかく崩れかけ、表面には棚の裏で吸ったらしい湿気の跡が薄く残っている。封じ目に付いていた封蝋も半分以上欠けていたが、かろうじて封は閉じたままだった。
「開けば、中に名前が書かれているかもしれませんね」
向かい側で手帳を開いていたリーネが、封筒へ視線を落とす。
「ええ。でも、宛先を探すために中を見るのは違う気がします」
ユウトは封じ目に触れないよう、紙の端だけを支えた。
配達先が分からないままでは、この手紙は届けられない。中身を読めば、誰に宛てたものか分かる可能性はある。それでも、書いた者は郵便屋に内容まで読ませるために封をしたわけではない。
「外から分かることだけ、先に調べましょう」
「そうですね。封が残っているなら、できるだけそのままにしたいです」
リーネは新しい紙を用意し、封筒に残る文字を写し始めた。
差出人らしい記しは、擦れて線だけになっている。宛名も半分ほど消え、読めるのは曲がった二文字と、家名らしい末尾だけだった。紙の端には、泥とも煤ともつかない薄い染みがある。
ユウトが染みの位置を確かめていると、机の脚を登ってきたポルカが鼻先を伸ばした。
「ポルカ、これは食べ物じゃないぞ」
「きゅ」
古い紙の匂いが珍しいのか、ポルカは耳を立てたまま封筒へ近づく。小さな鼻が角へ触れ、次の瞬間には前歯が紙へ掛かりかけた。
「だめ」
リーネが声を荒らげず、指先で机を軽く叩いた。
ポルカはびくりと止まり、耳を伏せた。封筒から離れると、手紙棚の前まで逃げるように滑空する。しかし湿気の残る古い棚板へ足を置いた途端、鼻をひくつかせ、すぐ隣の乾いた仕切りへ飛び移った。
「湿っているところが嫌なんですね」
リーネが言った。
ユウトは手紙棚の端へ指を当てた。表面は乾いているように見えるが、古い板の奥にはまだ冷たい湿り気が残っている。
「普通の手紙と一緒に置くには、ここは少し不安ですね」
「それに、間違えて配達分へ混ぜるかもしれません」
昨日は何も書かれていない札を添えただけだった。けれど、宛先不明のまま預かる手紙には、それ専用の置き場所が必要なのかもしれない。
ユウトは封筒を再び乾いた布へ戻した。
「保管場所は、帰ってから決めましょう。まずは外側の手がかりを集めます」
リーネは古い地図を棚から取り出し、現在使っている地図の隣へ広げた。
古いほうは紙が波打ち、川や道の線も薄れている。現在のルミナ村やミルネル丘と一致する記号はあるものの、書かれた地名の多くは今と違っていた。
「この宛名の最初の文字、地名か家名か分かりませんね」
「残っている線だけだと、どちらにも見えます」
リーネは封筒から写した文字を地図の上へ置き、何度も角度を変えた。
「でも、この印は川を表す古い記号です。今の地図だと、もっと細い線で描くんですけど」
古い地図には、川沿いに曲がる道が一本あった。現在の地図では途中から途切れ、草地として記録されている場所を通っている。
「この道の先に、建物の印があります」
「川辺の建物ですね」
「はい。宛名の末尾も、この辺りに昔あった家名と似ています。ただ、文字が欠けすぎていて断定はできません」
ユウトは地図へ顔を近づけた。
風路読みで道の跡を探すことはできても、机の上から昔の家を見つけることはできない。現地へ行く前に、土地を知る者の記憶を確かめる必要があった。
「バルドさんに聞いてみましょう」
二人は古い封筒そのものを持ち歩かず、リーネが写した文字と地図の印だけを携えた。封筒は乾いた布へ包み、風待ち小屋の机の引き出しへ一時的に収める。
ポルカは外出用の小さな鞄を付けたが、運ぶものは何も入れなかった。首元と羽の付け根を確かめると、嫌がる様子はなく、ユウトの肩へよじ登った。
ルミナ村では、バルドが畑の脇で壊れた柵を調べていた。
「古い手紙だと」
「はい。封は開けていません。外に残っていた文字だけ、リーネさんに写してもらいました」
ユウトが紙を渡すと、バルドは黙って目を細めた。
「開けなかったのは正しい。中身は、受け取る者のものだ」
短く言ってから、古い地図から写した印や線へ目を移す。
「この川沿いの道は、俺が若い頃にはまだ使われていた。今より川から離れずに通っていたはずだ」
「この先の建物に覚えはありますか?」
リーネが尋ねると、バルドは指で道をたどった。
「古い水車のある小屋だ。谷では水車小屋と呼んでいた。近くに、この宛名の残りと似た家名の家があった」
「水車小屋……」
リーネは現在の地図へ小さく印を付けた。
「家は今も残っていますか?」
「建物そのものは分からん。川が増水した年に、何軒か高い場所へ移った。家名を継ぐ者がいるかは、セラのほうが知っているかもしれん」
バルドは紙を返し、ユウトを見る。
「似ているだけで渡すな」
「はい。本人か、家筋か、確かめてからにします」
「約束は軽くない。古くても同じだ」
風見鶏亭では、昼前の鍋から豆と香草の匂いが立っていた。
セラは話を聞くと、まず三人を空いた卓へ座らせた。
「まず食べな。古い話は、空腹で思い出そうとしても出てこないよ」
温かなスープを前にしながら、リーネが写した文字と地図を見せる。セラは家名の一部を声に出し、しばらく記憶をたどっていた。
「その家なら、前に年配のお客から聞いたことがあるね。水車小屋のすぐ横じゃなくて、川向こうだったって」
「バルドさんは、水車小屋の近くにあったと」
「どっちも間違いじゃないと思うよ。昔の川道は今と少し違ったらしいからね」
セラは匙を置き、指で卓上に川の曲がりを描いた。
「家は増水のあとに移された。でも家名を継いだ人は、水車小屋から坂を上がったところに残っているはずだよ。今の建物は一軒だけだって聞いた」
「家そのものではなく、家筋が残っているんですね」
「そういうこと。ただ、その人が手紙の宛先本人か、受け取っていい立場かまでは分からないよ」
食い違っていた二つの記憶が、古い川道を挟むことで一つにつながった。
届け先候補は、水車小屋近くの一軒に絞れる。けれど、それはまだ候補にすぎない。
「現地で家名と、受け取る資格があるかを確かめます」
ユウトが言うと、セラは頷いた。
「それがいいね。急いで間違えるより、遅くても正しい相手を探すほうがいい」
風待ち小屋へ戻る頃には、窓から差す光が傾いていた。
ユウトは机の引き出しから古い封筒を取り出し、傷みが増えていないことを確かめた。リーネは空いていた預かり用の小箱を持ってくる。以前は予備の紐を入れていたが、今は中が空になっていた。
「この箱なら、棚板の湿気から離せます」
「通常の手紙とも混ざりませんね」
ユウトは箱の底へ乾いた布を敷いた。
リーネが用途札へ筆を走らせる。
「名前を付けておいたほうが、誰が見ても分かります」
書かれた文字を、ユウトは声に出して読んだ。
「保留郵便箱」
「宛先や受取人を確認するまで、ここで預かる箱です」
古い封筒を布の上へ置き、上から別の薄布を掛ける。蓋は密閉せず、湿気がこもらない程度に閉じた。
記録表には、見つけた日、封筒の状態、外側から読めた文字、バルドさんとセラさんから得た情報、水車小屋近くの家筋が候補であることを書き加えた。最後に、本人確認前は配達しないと明記する。
ポルカが箱の縁へ前脚を掛け、鼻を近づける。
「かじるなよ」
「ぷい」
今度は歯を立てず、布の匂いだけを確かめると、得意げに胸を張った。
「何もしてないよ、ポルカ」
リーネが笑うと、ポルカは不満そうに尻尾を振った。
日が落ちる前に、二人は明日の準備を始めた。
リーネは現在の地図に、水車小屋へ向かう未確認の道を薄い線で書き込む。確かめていない道を、確定した線にはしない。その横には、古い川道と家名についての短い注記を添えた。
ユウトは配達鞄へ防水布、予備紐、携帯食、記録用の紙を収めた。古い手紙は持ち出さず、まず現地で家と道を確かめる。受取人だと確認できてから、改めて運ぶつもりだった。
窓の外では、谷を抜ける風が白樺の枝を揺らしている。
ポルカが耳と羽を同時に震わせた。強い雨の気配はない。
「明日は、初めての道ですね」
リーネが薄く引いた線を見つめる。
「はい。地図と実際の道を、一つずつ確かめましょう」
保留郵便箱の中には、まだ誰のものとも確かめられない手紙が眠っていた。
届けるには、もう少し時間が要る。
それでも、行き先のなかった一通には、水車小屋へ続く細い道が初めて結ばれていた。




