009
希はいわばエリート中のエリートであり、行政支援AIも、所轄の管理官も、理論科の有望な生徒にはつまらない任務をもっていったりはしない。
死の危険を冒させて都市の魔術的な問題に対応させるより、温存し育てて社会に送り出した方が、政府と都市にとってはるかにメリットが大きい、と計算しているのだろう。
そんなふうに考えると、槐は、目の前にいるこの天真爛漫な女と親しく口を利いているのがバカらしくなってくるが、こっちが不遇だからといって落ち度も悪意もない人とむやみに距離を取ろうとするのもさすがにガキすぎるとも思えた。
ただ、なんとなく距離感を掴みかねているのは事実だった。
ともあれ、客がはけたのだから、さっさと店を〆て部屋にひきとりたい。
肩を並べて洗い物をしていると、希がふと、話しかけてきた。
「槐くんはこっちに来てどのくらいになるんだっけ?」
「四月からだから……半年とチョイですかね」
「もうカノジョとかできた?」
女はそういう話がやたら好きらしいが、槐にはなにが楽しいのか分からない。
「俺みたいなのに構ってくれる女の子なんていないスよ」
と、声をあげて笑う。
この流れなら、そっちこそどうなんですか、と訊くべきなのだろうが、大して興味もなかったので黙っていた。
口より手を動かそうぜ、と言わんばかりに洗い物のペースをあげる。
「だって、魔術院に通ってるなんて言ったら、どこ行ってもモテるでしょ?」
希は、なに言っているのかわからないんだけど、という調子で聞いてくる。
たしかに、魔術院の男子はそれだけでそこそこモテた。
なにしろ世間の女の子たちから自在に魔法が使えると思われているらしく、美容室でも歯医者でも、根ほり葉ほり魔法のことを訊ねられる。
クラスでも他校の女子と合コンに明け暮れている連中がいて、九谷も来ないかとよく誘われる。
二度行ってみて、つまらない女しか来ないと分かったので、以後はすべて断っていたが。
「まあ、そりゃそうスけど……」
と、槐はしぶしぶ認めた。
「訓練と学科がたいへんで、正直それどころじゃないって感じで」
「そっかぁ……」
と、希はやけに同情のこもった声で言う。
「たしか、高等部から編入になったんだよね。
じゃあ基礎からだから、大変だ。
わかんない所とかあったら、遠慮なく聞いてくれていいよ?」
キツいバイトの先輩にこれ以上借りを作るとか絶対にイヤだわ、と内心で呟いて、
「本当を言うと、魔術の実技より、中学レベルの英語とか数学とか、そっちのほうが問題で……
嵯峨サンの手をわずらわせる以前の問題、というか……」
「あ、そういう感じなんだ……」
それから、しばらく会話が途切れた。
「日本の千葉からひとりでこっちに来たんでしょ?」
と、希が言った。
「ハイ」
「身寄りとかいないんだよね。
淋しくないの?」
「淋しい……?
考えたことなかったな」
実家を離れてこっちに来て、にぎやかになったとも淋しくなったとも思ったことはなかった。
実家にいた頃は、友達もおらず、学校から帰宅すると本を読むか仮想現実のゲームに没頭していたし、酒浸りの父親とはだいぶ前からほとんど話さなくなっていた。
父は槐が小学生のころに、副知事の絡む大きな汚職についての記事を書いたが、記者として勤めていた地元紙に圧力がかかって退職に追い込まれ、かわりに東京の週刊誌に持ち込んだところ、掲載に必要だからといわれて署名した契約書に罠が仕組んであって、謝礼とひきかえに記事の権利を奪われてしまった。
まんまとハメられたのだった。
それからフリーのジャーナリストになり、ろくに取材もせずに面白おかしい記事を書き、それをイエロー・ペーパーに持ち込んで、なんとか糊口をしのいだが、酒の量が年々多くなり、槐が中学にあがる頃には、すっかり身体を悪くしてしまっていた。
母親はそんな父親を見限って、よその男と暮らし始めた。
槐も槐で、小学校のころ、友人が身に覚えのないいじめ加害を先生たちによって自白させられ、転校を強いられるという事件があって、父と相談しながらクラスメートたちに丁寧に聞き込みをし、ほんとうの加害者は別にいるということを、担任にむかって、証拠を揃えて示したのだが、あいにく学校はピクリとも動かなかった。
やがていじめ加害の張本人は、サッカーの特待生として名門の中学に進学し、すぐに欧州の一流クラブの下部組織へと移籍した。
小学校を卒業したあと、校舎に、卒業生〇〇くん欧州ビッグクラブへの移籍おめでとう、の大きな垂れ幕がかかっているのを見て以来、槐は世間とか社会とかというものに期待するのを一切やめ、ひたすら本の世界、ゲームの世界に逃避するようになった。
そんな具合だったから、アースリングにやってきて、忙しくなったと思うことはあっても、淋しくなったと感じたことは一度もなかった。
気づくと、希が洗い物の手をとめて、じっとこちらを見つめていた。
その瞳は、槐の心象世界を理解しようとする優しさを湛えたもののようにも、ただ位置関係や事実関係を正確に捉えようとする高性能なカメラのようにも見えた。
いずれにせよ、槐の何気ない言葉が、希の関心を強くひいたらしいことは明らかだった。
「ちょっと待ってください」
と、槐はかるく噴き出しながら言った。
「それじゃ俺がめっちゃ寂しいヤツみたいじゃないですか。
やめてくださいって」
希が、ふっと微笑む。
「なんだか不思議」
と、彼女は言った。
「年下の男の子なのに、ずっと年上のひとと話してるみたいな気がする」
「そんなこと、初めて言われましたよ」
槐は、話がこれ以上シリアスなほうへ流れるのが嫌だったので、軽いノリで、
「先輩、カワイイ子がいたら、紹介してくれないですか?」
希は、ハッと息を吸って、それから思い切ったように、
「……いいよぉ!」
おおきく頷く。
黒髪が跳ねて、耳につけたイヤリング式のスフィアが、ヘッジホッグに特有のあざやかな青い光を放った。
予想外の答えが返ってきて、槐は面食らった。
断ってくれよ、めんどくせえな、の思いがこみ上げてくる。
それを軽い微笑のしたに押し込めて、
「おっ、マジですか。
どんな人……」
「わたし!」
と、希は自分を指さして言った。
「わたしを紹介してあげる。
がんばりやさんだし、勉強をおしえてくれるし、いいと思うよ?」
それから突然アハハハと笑い出して、
「冗談だってば。
そんなに嫌そうな顔をしないで。
……わたし、シャッターを降ろしてくるね」
槐のエプロンをつかんで白い手をぬぐい、店の入り口のほうへむかった。
照明をおとし、ガスの元栓を閉め、裏口のドアに鍵をかける頃には、時刻は10時半をまわっていた。
「あーもう無理、ぜったい無理」
と、希が腕時計を見つめながら、ウールのマフラーのしたでくぐもった声をあげた。
「スフィアに要約させて、明日早起きして、目次と概要だけ読むしかないなぁ……」
と、ひとりごとのように言う。
「専門書の話、ですか」
希はうなづいて、顔をあげてにこりとし、
「じゃ、お疲れ!
次は遅れないでよ?」
「お疲れさまでした」
黒髪のハーマイオニーは、階段を二段またぎで駆けあがっていった。
制服のスカートが跳ねて黒いタイツのお尻がほとんど丸見えだったが、気にしてる余裕もないらしい。
それからはたと立ち止まってふりかえり、
「そうだ。
英語と数学だけどさ、その気になったら、いつでも言いなよ?
教えてあげるから」
踏板をカンカン鳴らしてあがっていった。
その後ろすがたに、槐は自分でもよくわかないまま、かるい苛立ちを覚えた。
「……余計なお世話だよ」
小声で吐き捨て、肩に手をあてながら、ゆっくりと階段をあがった。
けれども、――。
槐は足元を見つめながら、投げやりに考える。
彼女のように明るい性格で、親切で、容姿もよく、学業も優秀なら、ひとに反感を持たれることなど滅多になく、ああいう振る舞いを嫌がる男もいるなんて想像できないのも無理はないかもしれない。
世には自分のように、魅力的な女の子が幸せそうにしているのを見るだけで胸がムカついてくるタイプの人間がいる。
そういうのがときどき、脈絡もなく街で女を襲って殺す。
どこかの野蛮で貧しい国のテロリストのように女性たちを殴り、徹底的に支配したがる。
そんな報道がテレビから流れるたび、槐は暗澹となった。
そういうことをやる奴らの気持ちが分かってしまうのだ。
自分も、たしかにそんな連中の仲間なのだと思うと、いたたまれなかった。




