010
三階にあがって外廊下へ折れ、搬入口とでも呼ぶほかない両開きの鉄の扉のまえに立ち、南京錠にリアルの鍵をさしこむ。
古ぼけたコンクリートの倉庫に、スマートリモコンのような気の利いたものは付いていない。
いつものように手探りで壁のスイッチをさぐりあてる。
LEDのベースライトが灯り、寒々しくがらんとした空間が闇から浮かび上がる。
洗濯物から漂う洗剤の匂いと、コンクリートが放射する冷気以外に、これといって目立つものもない。
槐は扉のわきに積んである古い文芸誌をとって数枚ちぎり、ボルテクス・スフィアに触れてそれを狭間の異世界に持ち込み、魔術の火を起こして燃やし、現実世界に戻って、灯油のストーブのカバーをひらいて火を入れ、それから重荷を投げ出すようにベッドに腰かけると、ストーブのちろちろとした火が網をゆっくりと赤く輝かせていくのを、ぼんやりと見守った。
気が緩んだせいか、どっと肩が痛み始めた。
あのあと、地下鉄の現場に駆け付けた対魔術課の救護班から、簡易的な治療を受け、これ以上は悪化しないというお墨付きを貰っているが、二三日は温かくして過ごすようにと釘を刺された。
魔術的なダメージのせいで霊的な生命力が落ちているので、気を付けないと風邪をひきかねないし、もしひけば、こじらせかねないという。
しかし――、部屋を見渡しながら、槐は思う。
こんな部屋でどうやって温かくして過ごせというのか。
ミステリ小説に出てくるようなアメリカやイギリスの遺体安置施設のほうがまだマシではないか。
モルグには熱いインスタント・コーヒーを片手に仕事の話をする警察官や検視官らがいる。
ここには冷えた身体を持て余した高校生のほかに、だれもいない。
蕎麦ガラを詰めた枕のそばに、USBコードを挿しっぱなしにした携帯端末があった。
いまは端末の役割はほとんどすべてボルテクス・スフィアにやらせているので、携帯はあまり持ち歩かなくなっていた。
その端末が、青白く光っている。
ちょうどいま、メールを着信したらしい。
とって履歴を見ると、たしかに昼頃、嵯峨希からの着信があった。
今日はカップ戦だからすっごく忙しくなると思うの。
悪いけど早めに帰ってきて。
おねがい(ハートマーク)。
この人は自分の色香が武器になると思って絵文字をつけている訳ではなく、単におどけてやっていることが分かっていたから、槐はその馴れ馴れしさにかるく苦笑いを浮かべただけだった。
いま届いたメールは、知らないアドレスからだったが、内容をざっと見ると、生物学上の母親からのものらしかった。
法的には、彼女が父親を見捨てて家を出てすぐに、裁判所に関係解消の申請をし、認められていたので、いまは赤の他人にすぎなかった。
気分転換にメールアドレスを変えてみました、と書いてある。
いつものように生活のあれこれを気遣う内容だろうが、赤の他人にそれを心配されるいわれはない。
槐はそのまま、そのアドレスを着信拒否に設定しようとしたけれども、活字中毒の悪い癖が出、かといってダラダラ読むのも癪で、文面にすばやく眼を走らせた。
『……お店のお客さんの甥っ子がたまたまアースリングの魔術院の生徒で、それが当局から指示をうけて活動している最中に大けがをして、予後がよくないので帰国することになった、と聞きました。
アースリングではそういうことがよくあるみたいですね。
お母さんはそういうことを知っていたら、槐くんがそっちにいくことに賛成しませんでした。
もしかしたら、槐くんもそんな任務をさせられているんじゃないかと思うと、心配でしかたありません。
槐くんがまだ私のことを怒っているのはわかっています。
でも、よかったら返事をください。
近況を聞かせてください。
もし辛いことがあったら、いつでもこっちに戻ってきてくださいね。
槐くんが大学を出て就職するまでのことは、お母さんがなんとかします。
もし、生活や学費のためにしかたなく魔術院に通っているのだとしたら、その必要はありません。
それから、ごはんはちゃんと食べていますか。
アースリングは物価も家賃も高くて大変だとよくニュースでやっていますよ。
食べ物をたくさん送りたいのだけれど、槐くんが受け取ってくれないので……。
くれぐれも、むりはしないでね。
あなたの声が聞きたいです。
またメールします。
母より』
槐は携帯端末を床のコンクリートに投げつけたくなるのを、何とかこらえる。
読んでしまったことを激しく後悔した。
失意の父を見捨てて他所の男と暮らし始めたヤツに、こんなゴミみたいなメールを送り付けられるいわれはない。
――チューハイの缶を手に、居間の隅でうずくまっている父に、家から出ていくことを静かに宣告した母親のすがたは、今もはっきりと覚えている。
栗色のあでやかな髪。
魔女みたいな化粧。
水商売の女がよく着ている、丈のみじかいワンピース。
白い小ぶりのハンドバックに網タイツ。
みすぼらしくやつれた父は、華々しく自身を飾り立てた母を、酔いで濁った眼でみあげて、悲し気に微笑んでいた。
おない年なのに、ふたりは20も歳が離れているように見えた。
あのときのことが、鮮明に脳裏によみがえる。
『老後の孤独が心配なら、いまから友達でもたくさんつくっておけば?』
槐はそこまで慌ただしく打ち込んで、急にむなしくなり、返信のドラフトを破棄した。
端末の電源をおとし、デスク・ワゴンのひきだしに放り込む。
それから蕎麦ガラの枕を二度、力任せに殴った。
肩の痛みが慰めになるとは思わなかった。
ふと、心細くなる。
俺はこんなロクでもない奴しかいない世界で、ほんとうに生きていけるんだろうか。
生きていけたとして、こんな世界に生きる価値などあるんだろうか。
ここ数年は、相手にするのもバカらしくなってくるようなモノばかり見せつけられている気がする。
新松戸の実家で、仮想現実のゲームに没頭していた頃が懐かしい。
あの頃はまだ、世界に背を向けて生きていられる余裕があった。
いまはもうない。
学校をサボり、当局の管制官からの通信を無視すれば、二か月と経たないうちに路頭に迷うことになる。
胸のなかに忽然と浮かんだ、あのみすぼらしい犬のデーモンに、俺もおまえと一緒らしい、と言葉をかける。
そうして意味もなくおかしくなってきた。
槐は、どこか冷めたところから、ククク……と喉を鳴らす自分を、夢でも見ているみたいに、ぼんやりと眺めた。
LEDの冷たいひかりに照らされたコンクリートの壁を意味もなく見つめる。
そのうち、青黒いしみが、兎にすがたを変えた。
やがて兎は波打ってゆらぎ、勝手に動きはじめ、フラフープを回すみたいに陽気に踊り出す。
世にこころの退行というものがあるとすれば、きっとコレがそうなのだろう。
槐は踊りまわる黒うさぎを眼で追いかけながら、退行もわるくない、と思った。
たしかに退屈ではあったけれども、この世界には、退屈よりよっぽど酷いものが、あまりに多く存在しすぎている。
ベッドに仰向けになり、眼を閉じると、どこからか、歌声が聞こえてきた。
風の音にうもれて消えてしまいそうなほどの、かすかな声だった。
それが注意を傾けているうちに、すこしずつ明瞭になっていく。
聞いたことのある歌だった。
アメリカの、古いポップス。
ボルテクス・スフィアに曲名を尋ねると、
『これはCan't Take My Eyes Off You、邦題、君の瞳に恋してる、ですね!』
と、間抜けなくらい明るい調子で返してきた。
トリビアを語り始めたスフィアに、槐は
「もういい、サンキュ」
と言った。
コンクリート壁を隔てたむこう側に住んでいるあのお節介な上級生が歌っているのだった。
ときどき、こういうことがある。
認めたくはなかったけれど、希は歌が抜群に上手かった。
初夏の風鈴を思わせるその歌声に聞き入っているうちに、槐は、自分の視界がすこしだけぼやけているのに気が付いた。
こころが音叉みたいになって、希の声に共鳴し、震えている。
いくら逃げようとしてみたところで、しょせんは自分もつがいを求めて紅葉の景色をさまよう一蹄の牡鹿に過ぎないらしい。
いずれオヤジみたいにつまらない思いをさせられるとしても、いまはひとの定めとして、女鹿の鳴き声にさそわれ、ふらふらと奥山に踏み入っていくしかないのだろう。
希がバンダナで髪をまとめて眼鏡をくもらせながら調理場で働いているのを見るのは、決して嫌いではなかった。
けれどもそれ以上に希が恐ろしかった。
急に空腹を覚えた。
身体を起こし、頭を振って、それから冷凍庫をひらく。
冷凍食品のストックは底をつきていた。
槐は制服のポケットから小銭入れをとって、スフィアでデビット・カードの残高を確かめてから、ジーパンを穿き、ボーダーのセーターに袖をとおした。
搬入口を押し開くと、こぼれたひかりのなかを、雪が斜めに流れた。
近くのスーパーにむかい、ハンバーグ弁当とストレートの紅茶、冷凍のカルボナーラとペペロンチーノとごはん、それにからあげとフランスパンを籠にいれ、支払いを済ませた。
衝動的にエンジニア・ブーツを買ってしまったことをまた後悔した。




