008
黒のブラケット・サインには、「PUB*WOODSTOCK」とあった。
店を開いたばかりの頃は、オーナーの趣味で、古いグラムロックを流すマニアむけの飲み屋だったらしいが、客層やニーズに合わせていろいろ模索しているうちに、昼はレストラン、夜はスポーツ・バー、という今のスタイルに落ち着いたらしい。
そのときにかけた看板が、そのままになっているということだった。
なにか思い入れでもあるのだろう。
確かに、この看板がパブの外観に添える尖ったムードには、悪くないものがあった。
ガレージの黒鉄の螺旋階段をまわりこんで、裏口のドアを開くなり、チャントの大合唱と、調理場の騒音と、暖房のむっとする熱気が、いっぺんにあふれ出した。
オーナーはすでに出来上がり、カウンター席で客たちと盛り上がっていた。
クライヴ・マッコイという42歳のアメリカ系の白人で、祖父の代に資源開発の工員としてテキサスから入植してきたらしい。
むろん日本語も流ちょうに喋るが、英語のほうは、客たちに言わせると、南部訛りが酷すぎてなかなか聞き取れないらしい。
マッコイは裏口のほうを振り返ると、
「遅かったじゃねえか、ハリー・ポッター」
と、にやりと笑った。
アースリングの白人のオッサンたちは、魔術院の男子生徒のことをよくそう呼ぶ。
眼鏡をかけていようがいまいがお構いなしだ。
女子はむろん誰でもハーマイオニーである。
これも髪の色や人種はまったく無関係だった。
オーナーは試合が気になってしかたないというように液晶モニターを横目に見ながら、
「さっそく、ハーマイオニーを手伝ってやってくれ」
調理場に親指をむけ、その代名詞で呼んだ。
「すんません、すぐ準備します」
槐は肩をかばいながらコートとブレザーをまとめて脱ぎ、ロッカーのハンガーに引っ掛け、店のロゴの入った黒いエプロンをとってつけた。
店のホログラム・モニターをのぞくと、帆影FCは2-0でリードしていた。
オーナーの機嫌が良い訳である。
それから客に呼ばれて注文をとり、ジョッキをふたつとってサーバーに当て、黒ビールを満たして客のあいだをすり抜けるようにして運ぶ。
空いた食器をさげ、入店してきた客のためにボックス席の先客に相席をもちかける。
前半が終わってテレビ中継がCMに入るまでに、流しに溜まった洗い物を片付けにかかる。
帰りの客に気づき、レジをうち、空いたテーブル席を拭いていると、中年の客から声をかけられた。
ようハリー・ポッター、このまま勝ち切れるか霊感で占ってくれよ。
槐は内心、俺は崇高な魂をもった作家志望であって、占い師なんかじゃねえンだよ、と毒づきながら、
「勝ち切りますよ、間違いないっス」
と適当に請け負う。
数人の客がそれを聞いて口笛を鳴らした。
厨房の少女が、
「これ運んで!」
と大声で呼んでいる。
湯気のせいか、眼鏡がくもっていた。
カウンターに並べられたサンドイッチとフィッシュ・アンド・チップスを所定の客のところへ運ぶ。
戻ってくるなり、彼女は、
「もう、遅かったじゃない。どこで油を売ってたの?」
「いや、地下鉄のトラブルに巻き込まれて……」
「こないだは近くで火災があって人込みで身動きがとれなかった、で、そのまえは立てこもり事件があって当局に足止めされた、だっけ。
槐くん、ちょっとトラブルに巻き込まれすぎじゃない?」
少女は鍋の中子をとりあげてお湯を切り、フライパンの朱色のソースにパスタを入れ、トングでからめながらぶつぶつ文句を言った。
苦情なら当局の管制官に言ってくださいよ、と喉まで出かかったが、それを言ったところで、火にガソリンを注ぐだけだろう。
彼女の通っている魔術理論科の勉強の大変さは、戦闘科の比ではない。
それは周知の事実だった。
さっさと部屋にひきとって予習や復習に取り掛かりたいところだろう。
「昼、メールしたよね?
読んでくれた?
ほんとに、わたし死んじゃうって」
この客の入りで厨房とフロントをひとりでやっていたらそりゃ死ぬだろう。
カウンター席を見やると、オーナーはうなり声をあげながら他の客とハイタッチしていた。
フォワードがサイドからのクロスに頭をあわせ、三点目を決めたらしい。
店のことをやる気はまったくないようだ。
「なに笑ってるのよ。
これ、貸しだからね」
ユニオン・ジャックのバンダナで黒髪をまとめたハーマイオニーは、アラビアータにパスタの茹で汁とオリーブ・オイルをまぶしてフライパンをあざやかにあおり、トングでひねりをつけながら皿に盛りつける。
にんにくととうがらしとトマトソースの何ともいえない香りが漂った。
「オーナーもご機嫌だし」
槐はその湯気のたった皿をお待たせしましたと言ってカウンター越しにOLふうの客のまえへと運ぶ。
OLは微笑んでありがとうと言い、パルメザン・チーズを振りかけ始めた。
「帆影FCも好調みたいだし、今日は午前さまコースすかね」
ハーマイオニーは顔をよせ、悪戯っぽく微笑み、声をおとして、
「狭間の異世界を覗いてみなって。
試合が終わったら、すぐに、解散になるよ」
「マジっすか」
槐はボルテクス・スフィアに触れて、視座のみの移転を指示し、それから忽然と客の消えた店内の、ホログラム・ビジョンを見た。
帆影FCのホーム・スタジアムの観客席から、上空にうねる多頭の龍のようなクリーチャーへと、金色の粉のようなものが流れていっている。
これは客たちの応援の思念であり、多頭の龍が暴れるための燃料になっていた。
けれども3-0になって満足した観客たちは、もうあまり金色の粉を発していない。
他方、アウェーの新松代シティの応援席からは、懸命の応援から生じる、凄まじい金色のエネルギーが、巨大な火柱のようになって立ちのぼり、上空の、恐竜のようなクリーチャーを猛烈に支えていた。
恐竜は多頭の龍に食らいつき、鋭い爪で殴打する。
多頭の龍のほうは怯えたように頭をくねらせるばかりだった。
まるで前々世紀の怪獣映画だった。
点数のうえでは帆影FCのほうが優勢だけれども、チームの勢いを象徴する霊的な守護者どうしの争いでは、もう力関係が逆転してしまっていた。
現実世界に視座を戻すなり、得点のホイッスルと、客たちの嘆きの声があがった。
リプレーが流れる。
新松代シティが中盤のボール奪取から鋭いカウンターをかけ、ミドルシュートで得点をあげたようだ。
3-1になった。
「後半26分か……」
と、槐は言った。
「持たないかもしれないスね、これは」
「持たないよ!」
と黒髪のハーマイオニーは自信たっぷりに断言する。
「ていうか」
さらに声を落として囁くように、
「負けてくれないと困るんだけど!」
切実な顔つきでそう言った。
「……勉強、大変なんスか?」
「わたし、明日までに専門書を一冊読み切らないといけないの!」
信じられないでしょ、という顔つきで槐を見やる。
「そんなもんスフィアに読み込ませればいいじゃないスか」
読み書きや英語などの科目は別として、魔術学の専門的なテストでは、携帯端末などを持ち込んでAIに頼ってもいいことになっている。
でなければ、魔術院の高等部理論科を卒業できるのは、ごく一握りの博覧強記の天才だけになってしまうだろう。
「最悪そうするけどさ……楽をするクセをつけちゃったらダメでしょ?」
「真面目っスね……」
すぐに再びホイッスルが響いた。
帆影FCのペナルティ・エリアのなかで相手の選手がのたうちまわっている。
DFたちが必死の形相で主審に抗議するが、判定は覆らない。
新松代シティのFWが難なくPKを決めて、あっというまに3-2になった。
それから槐が洗い物をしているうちに同点になり、アディショナル・タイムに入って帆影FCはとうとう逆転された。
店は阿鼻叫喚のうめき声に満ち、それから沈んだ顔の老若男女がレジのまえにずらりと並び、試合終了から五分と経たないうちに、店内はしんとなった。
ホログラム・ビジョンが流すコマーシャルの音声と、水仕事の音だけが、しみわたるように広がっている。
失意のオーナーもどこかへ行ってしまったようだ。
上級生の少女は調理場の鍋やフライパンを重ねて洗い場に運びながら、
「ほらね!」
と、得意げに言った。
彼女は名を、嵯峨希と言った。
魔術院高等部の二年生で、理論科に所属している。
軍や治安当局、自治体などのブルーカラー職への就職がほぼ決まっている戦闘科とは違い、理論科の生徒は、大学、大学院と進み、最終的には国家公務員や研究職、あるいは大企業の技術開発部に進む者が多かった。
たとえば槐の戦闘科が工業高校とすれば、希の理論科はトップの進学校にあたると言えた。
槐が英語のテストに四苦八苦している傍で、希は第一線の魔術研究者が読むような専門書を、普通に読みこなしているのだった。
実際に魔術戦をしても、彼女はおそらく槐よりずっと強いだろう。
少なくとも魔力スコア、戦闘スコアは槐の94をはるかに凌駕していると思われた。
慌ただしく料理をしながら狭間の異世界を覗き、試合の帰趨を正しく見通すには、それ相応の力量が必要だからだ。
理論科の生徒がお勉強だけのひ弱な魔術師だとは限らない。
たんに、学問と戦闘のいずれもできる者は、将来のことを考えて普通に学問のほうを選ぶ、というだけの話だ。
ごめんなさい投稿するナンバーを間違えました。(修正済)
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