005
壁に背をあずけて、白い息を吐く。
酷い目にあったせいなのか、救援が来るとわかって安心したせいなのか、眼の端に涙がたまってきた。
戦闘スコアの低さが恨めしい。
魔術院戦闘科のA組、つまり上級クラスの連中なら、一撃の衝撃波であのクソいまいましい犬の化け物をまとめて吹き飛ばしただろうし、あるいは、追尾性能のついた無数の魔力のつぶてをいちどきに放って、アニメやゲームみたいに、鮮やかにせん滅しただろう。
心臓が脈をうつたびに肩がズキン、ズキンと痛む。
スフィアによって痛覚は制限させているが、それでも耐え難いレベルだった。
この怪我は現実世界に戻っても影響が残るだろう。
肩が動かない程度で済めばいいが。
下手をすれば数日寝込むことになるかもしれない。
また学科が遅れる。
「クソ……我が身の浅学菲才ぶりが泣けてくるわ……」
また、だしぬけにポーンという電子音が立った。
『電気設備室から消失したデーモンの追跡が完了しました。
デーモンは自身を電子化し、施設内の配線を辿って移動することが可能なようです。
ただしその際に蓄えた電圧を大きく消耗するため、長距離や頻繁な移動は困難であると推測されます』
「今月の『そういう話は先に言え大賞』だ、それ……」
そうしてふと、向かい側の壁にある小さなオレンジのライトが眼についた。
故障しているのか、電源を切っているのか、光は灯っていなかったが、配線がここまで繋がっている可能性は高い。
つまり、デーモンどもに自分の位置を知られてしまうと、ここに殺到される恐れがあった。
思わず、舌打ちが出た。
すぐ上からは、放電のバチバチという音や、犬のバケモノの肉球がヒタヒタと歩き回る音、それから殺伐とした唸り声が、コンクリートの分厚い壁を越えて、かすかに聞こえてきていた。
ここで多少、物音を立てたところで、上のバケモノどもは感づいたりしないだろうとは思うが、それでも身体が勝手に息をつめ、衣擦れの音を立てないよう硬直するのは、どうしようもなかった。
あとのことは当局の魔術対策課に丸投げして、さっさと帰りたい。
しかし、たとえすぐに帰れたとしてもそのままベッドにもぐりこむわけにはいかなかった。
下宿先に戻ったら戻ったで、店の手伝いをしなければならない。
20:00からフットボールのカップ戦の決勝戦があり、地元の帆影シティを応援する連中が店に殺到するに決まっていた。
管制官から通信がくるまでは、仕事の合間を見ながら店のホログラム・モニターで試合を観戦するのを楽しみにしていたけれど、今となってはどうでもよくなっていた。
白い息が、貯水池の支柱から投げかけられる冷たいひかりのなかへ、じんわりと薄れて、消えていく。
ボルテクス・スフィアが意識内に投げかけてくるアナログ時計を見やる。
あれからほとんど時間は経っていない。
こういうときは遅々として時の流れが遅くなるものだ。
かといって、暇つぶしにゲームアプリを起動させる気にもならない。
そんな精神状態ではなかった。
肩の痛みと寒さにただ耐えて、一秒一秒を数えるようにして時を過ごす。
そうして、どのくらい経っただろうか。
ヒタ……ヒタ……。
槐は顔をあげて、息をつめ、耳を澄ませた。
間違いなく、それは犬のような肉球をもった動物の足音だった。
ただ、上でたむろしているゾンビ犬のように騒がしくはない。
明らかになにかが違う。
槐の記憶に蘇ったのは、実家のちかくの老夫婦が飼っていた年老いたゴールデン・レトリバーの姿だった。
学校の帰りに立ち寄って撫でてやるといつも面倒くさそうに尻尾を振る。
そうして、遊びたい気持ちはあるのだけれど、身体がついていかないんだ、というように、じっと槐を見上げた。
老犬は、槐が小学五年生のときに天国に旅立った。
ある日、その家のおばあちゃんが庭先で泣きながら箱に花を詰めていた。
死んだ犬を焼却処分に出すために、棺を整えていたのだった。
脇からのぞくと、ゴロウは……その犬は、死んだとはとても思えない、幸せそうな顔をしていた。
とはいえ、回想は後回しにすべきだろう。
いまは命の危険のさなかにいる。
軽く頭をふって、じっと集水口のあたりを凝視する。
淡く差すひかりのなかに現れたのは……傷ついたゾンビ犬だった。
右の前足を失い、びっこをひくように歩いている。
眼からは狂気が消え、疲れ切った犬の物憂げな色があった。
そのデーモンは槐を一瞥すると、もう戦う気はないと言わんばかりに、集水口の脇にぺたりと座り込んだ。そうして丸くなり、尻尾の付け根に鼻先を埋める。
槐はてのひらに思わず魔力のつぶてを起こした。
青白いひかりがポッとトンネルを染める。
しかし、なぜか撃ち出す気にはなれなかった。
ここで物音を立てて上から敵を呼び寄せるのは愚かだったし、だいいち戦意のない犬につぶてを当てるのは魔力の無駄のような気がした。
槐はしばらくゾンビ犬の様子を伺ったが、犬が眼を閉じたまま、ふ、と息をつくのを見て、すこしだけ気を緩めた。
現実世界を物質の領域と定義することができるならば、狭間の異世界は「思い」や「概念」から成る世界と見なすことができた。
だから魔術師は狭間の異世界で魔法のちからを振るうことができる。
敵対性の生命体「デーモン」も、元を辿ればだれかの妄執だったり負の思念だったりする。
それらの「念」が狭間の異世界で「運命」を作り、現実に影響を与える。
その「運命」に介入して現実を操作するのが魔術師である。
だから、電気設備室で電力を貪っていた電気犬の群れも、槐のすぐ目のまえで蹲っているゾンビ犬も、恐らくは、このベーリング海に建造された人工島――アースリングに連れて来られた飼い犬たちがルーツになっている。
それが街の変遷のなかで野犬化し、大都市の野良犬にありがちな悲哀を辿ることになったのだろう。
犬がふと、顔をあげ、悲しげな眼を槐にむけた。思い出話をだれかに聞かせたい年寄りのような顔つきだった。
槐はそんな風に思うと、つい口もとが綻んだ。
ゾンビ犬が仄かに白いひかりを放っている。
恐らく、槐になにかを伝えようとしているのだ。
動物は人間とちがい、個々の意識の境目がそれほどはっきりしていないという。
人間には「自分」という概念があり、自他の区別がはっきりしているが、犬などの動物は自己を「われわれ」として意識しがちだ。
そのため、それらの動物から生じたデーモンは、複数の固体の記憶を共有していることが多かった。
アースリング島がまだベーリング海洋資源調査拠点と呼ばれていた時代、犬たちは労働者に連れられてこの島に移り住んできた。
パブに放し飼いにされたシベリアン・ハスキーが、雪道を歩く防寒具すがたの男たちにじゃれついている。
男たちは犬を撫でてやり、ときおり肉のわずかに残った骨を与えた。
犬にとってそれはご馳走であり、そのご馳走をくれて遊んでくれる労働者を見かけると嬉しくてしかたなくなった。
人工島の所有権が、アメリカの資源開発会社のアースリング社に移転して、アースリング島と名を改め、数年経つと、世界的なレアアースの供給過剰が起こり、島を大不況が襲った。
過剰な労働者は容赦なくリストラされたが、当時はまだ社会制度が整備されておらず、失業者にはほとんど何の手当てもなかった。
仕事にあぶれた労働者は、ゴミでもなんでも漁って食べなければ生きていけなかった。
当然、犬もその標的になった。
犬たちは、あんなにやさしかった労働者たちがどうして自分たちを騙すようにして殺そうとするのか、理解できなかった。
平屋の庭で、中学生くらいの白人の女の子が泣いている映像が見えた。
そこで飼われている柴犬には、女の子の泣いている理由がわからない。
しかし槐にはなんとなく分かった。
父親が失業して、すぐにも国に帰らなければならなくなったが、一家には犬を連れて帰る余裕がなかった。
そのことを母親から告げられて、娘は必死に抗議しているのだろう。
犬は家族を見送ったあと、ゴミを漁りながら、何年も帰りを待ち続けた。
やがてやせ細り、ある冬の夜、綿毛のような雪にしずかに埋もれて、永遠の眠りについた。
次にあらわれたのは、建設ラッシュに沸く大都市の風景だった。
財政破綻して国連の管理下におかれたアースリング島は、特別行政区に指定され、極東やアメリカの西海岸と欧州をつなぐ北極海航路の中継点として、一転、物流の一大拠点となった。
空前の好景気が訪れたのだ。
近代史の授業でも詳しく説明されるくだりである。




