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この違和感を放置するのはきわめて危険だ――槐の直感が、そう告げていた。
「おい、ヘルズエンジェル。
見取り図はこれで合ってるのか。
狭い通路やダクトを見落としたりしていないだろうな」
『そのはずです。
なにか問題でも?』
「敵の数が合わねえんだよ。
消えた数匹はどこへいった。
すぐに行方を捜せ。
それから見取り図を立体化するんだ、急げ」
心拍数がドッとあがるのが、自分でも分かった。
これはよくないパターンだ。
ハクスラでも魔術の戦闘訓練でも、状況をしっかり把握できているうちはいい。
それができなくなると、わずかなトラブルで一気に苦境に陥ったりするものだ。
ここは未練を断って、いったん離脱し、情報を整理したほうがいい。
戦況を楽観し、思わぬ方向から敵に襲われると、即死まである。
ゲームの世界なら死んでもせいぜい時間が無駄になる程度の話で済むが、狭間の異世界で死んでしまうと、現実でも死んでしまう場合がある。
狭間の異世界と現実世界は連動しており、狭間の世界で起こったことは現実にも影響を与えるのだ。
たとえば唐突に脳内の血管が破れたり、急な感染症や内臓疾患に見舞われたり、あるいは事件・事故に巻き込まれたりする。
発作的に自殺の衝動に駆られて列車に飛び込んだり、ビルから飛び降りてしまう者もいた。
そのため、狭間の異世界で死んだら、すみやかに、魔術院の医療設備で魔術的な蘇生の処置を受ける必要があった。
これにより、「宿命的な」死を免れることができる。
ただ、身体にはどうしてもダメージが残る。
数日寝込むほどの重い風邪や肺炎を患ったりする。
幸い、槐がここで狭間の異世界のトラブルに対処していることは、治安当局も魔術院も把握している。
仮に死んでも、すぐに救援が来るだろう。
いのちの蝋燭が尽きるまえに蘇生の処置を受ければ、死なずに済む。
ただし、その後、病院なり下宿先なりで数日寝込むことになるのは避けられないし、下手をすれば精神に深刻な後遺症が残る。
そのせいで魔術が使えなくなれば、魔術院を退学することになるかもしれない。
戦闘科から学究・研究関連の科に移ることができるほど、槐は学科の成績がよい訳ではなかった。
政府の振ってきた仕事で負傷するのだから、傷病手当や慰労金は出るが、そのカネを使い果たすあいだに身の振り方を決めないといけない。
飲んだくれの実家の父親は頼れなかった。
ともかく、離脱だ。
敵を牽制しながら後退するか、この場を放棄して一目散に逃げるか。
情報がそろっていないのだから、いくら考えたところでオッズの分からないギャンブルにしかならない。
一つだけ分かっているのは、決断までに時間をかければかけるほど不利になるということだった。
こういうときは、だいたい、本能的な衝動に逆らうのが正しい。
いま、槐の感情は、一目散に逃げたいという誘惑に揺さぶられている。
だとすれば、慌てずに敵を牽制しながらじっくりと後退するのが正解だ。
こういうのはもう理屈ではなかった。経験からくるカンである。
見取り図の立体化処理が終わったことを告げる、スフィアの声。
それを取り寄せて、横目に見ながら、魔力のつぶてを打ち出す。
青白いひかりの弾がコンクリートの構造体の薄闇をきって流れるように飛んでいく様はなかなかアクション的だった。
だれかに撮影させてSNSにでもあげれば、それなりに見てもらえるかもしれない。
見取り図によると、すぐ下には排水のための横穴があり、ぎりぎり飛び降りることのできそうなスペースもあった。
自治体の除雪活動はここ数日行われておらず、横穴にどっと排水が押し寄せてくるということはなさそうだった。
犬のデーモンが途切れ、引くならこのタイミングだと確信した瞬間、右肩のあたりにどさりと黒い塊がおちてきて、すぐに激痛が走った。
ゾッとなった。
腐った犬の頸が眼のまえにあった。
充血した眼を見開き、薄汚いギザギザの牙を肩に食い込ませている。
一瞬、頭が真っ白になった。
意味もなくよろけて、犬の頸を壁におしつけようとして、腕をコンクリートに思い切りぶつけてしまう。
「うあっ……うああ……!」
犬の頸がカッと紫に光った瞬間、電気ショックが身体をめぐった。
全身ががくがくと勝手に震え、倒れ込み、のたうちまわった挙句、手すりに背を激しくうちつけた。
幸い、それがアースになって、自由がいくらか利くようになった。
槐は二度、深呼吸をしてから、左手に魔力の刃を起こした。
魔術院の戦闘訓練で、アースリング陸軍の陸士長とやらからくりかえしやらされたことが、ここで生きた。
まばゆく光る刃を、肩の上あたりめがけて振る。
ザクっと小気味いい手ごたえ。
赤黒いものがうねって飛び散り、眼玉が赤い繊維をひいてだらりと垂れ、頬にふれた。
ゾッとしながら犬の頸を掴んで、それを力任せに貯水池に投げ込む。
なにを喚いているのか、自分でもわからない。
袖でこするように頬をぬぐう。
顎を無理にひきはがしたせいで、肩を抉られたらしい。
どっと血がふきだして、腕をつたい、足許に溜まりをつくる。
気づけば、前も後ろも無数の犬の怪物にふさがれていた。
それが唸り声をあげながら、じりじりと寄せてくる。
迷っている暇はなかった。
槐は手すりを跨いで超えると、そのまま真下に飛び降りた。
わずかに、30センチ幅ほどの段がある。
そこにぎりぎり着地するなり、体重をおもいっきり壁側に寄せる。
そうしなければバランスを失って貯水池に突っ込んでいただろう。
黒い横穴には、わずかに支柱からの光が届いていた。
入っていって壁際に腰をおろし、激痛に顔をしかめながら、この怪我をどうしようかと考える。
右腕はもうほとんど利かない。
まずは傷の具合を肉眼で確かめたかったが、この酷寒の環境で上半身を露わにするのは危険だった。
寒さで余計に体力を奪われる可能性がある。
そのまえに、激痛に耐えながら服を脱ぐことを考えるとうんざりした。
脱いだところで大した手当もできない。
とりあえずヘルズエンジェルに血管の収縮と痛覚の制限を指示し、それから改めて見取り図の点検に入った。
こうなった以上は負けを認め、離脱のルートを探すほかない。
唐突に、ポーン、と間の抜けた着信音が響いた。
ヘルズエンジェルが、帆影北署の管制官からの通信を取り次ぐ。
『対応指示は取り消す。
すぐに離脱をはかれ。
AIの判断ミスだ。
状況を精査したところ、盗電をしていたのはいわゆる群霊であることが分かってな、個々のデーモンは戦闘スコア42ポイントていどで対応できる相手だが、数が20から30いて、対処には最低でも400ポイントが必要だと分かった』
「……遅えよ、バカ野郎」
槐は思わずそう口走った。
これだからAIも行政も、当てにならない。
『その様子だと、すでに負傷しているな。
いま、おまえのスフィアから戦況と怪我の程度に関する情報の転送を受けている。
すぐにうちの署の魔術対策課の人間をそちらに向かわせる。
いいか、無暗にそこを動かず、救援を待て』
「……どれくらいで来れます?」
『すまん、こっちも立て込んでてな……』
端末を操作する音が、しばらく続いた。
『現場の責任者は、最速でもあと20分はかかると言ってきている。
……そう落ち込むな。
こっちだって魔術院の戦闘科の生徒を無駄に死なせたりはしたくない。
なにしろ猫の手だって借りたいくらいだからな。
最善は尽くすよ』
じゃあな、幸運を祈る、とだけ言って、管制官は通信を切った。




