017
アリスは鞄から端末をとりだして、操作しはじめた。
「この男、最近ぱったり来なくなった常連さんにストーカーしてたヤツだと思う。
防犯カメラの画像も見せて貰ってる。
その常連さん、さっき話してたみたいに、ちょっとヤバいカードが出ちゃった人でさ。
……あ、これだ」
端末を耳に当てる。繋がるなり、
「あっ、川崎さんの携帯電話ですか?
……わたし平坂で占い師をしてるマーキュリー星野という者なんですが、ご予約を頂いてたんですが、こちらの都合でちょっとお受けできなくなっちゃって、それでご連絡を……
えっ、どういうことですか!?」
それからしばらく、頷きながら話を聞いて、通話を終えた。
「なにがあったんだ」
「一斗缶のバラバラ死体、やっぱりウチの常連さんかも……」
と、アリスは沈んだ声で言った。
「事情があってまだ確認できていないんだって。
たぶん……遺体の損傷がひどくて、ご家族に見せてもすぐには分からない、的なことなんだと思う」
「べつの人だといいけど……もしそうだったら、気の毒にな」
「川崎さん、ガールズ・バーでアルバイトをしながら、大学の仲間とインディーズの音楽活動をしてるって言ってた」
と、アリスはみるみる目に涙をためながら言った。
「この男、ほんとにヤバそうだから、しばらく警察に匿ってもらったほうがいいって、何度も言ったんだよ。
……こんなことになるなら、いっそ、あの男を見つけ出して、『狭間の異世界』に引きずり込んでやれば……」
槐は、アリスのきれいな爪がてのひらに食い込んでかすかに震えるのを見ながら、
「気持ちは、わかる」
と言った。
「すごくいい人だったの。
ピュアっていうか、話しててとても楽しかったし、……ヤダ、眼がはれちゃう」
薬指で涙をぬぐう。
「ゴメン槐、先にいってて。
わたし、気持ちが落ち着くまで、どこかで休んでいくから」
「なんなら、付き合うか?」
「ありがと」
と、アリスはそばかすの散った頬を光らせながら微笑む。
「でも、大丈夫。
あたし、川崎さんの友達とか知っててさ、電話しなきゃいけないし、ほかに用事もあるから。
……ほら、遅刻しちゃうよ、行きなって」
「そうか、わかった。
……元気だせよ」
「じゃ、あとでね」
槐はアリスに背をむけて、人込みから冬の青空を仰ぎ、なんとなく、女を殺す男、と呟いた。
女を殺せば、当然のことだが女は死に、その周囲にいる人たちは悲しむ。
たとえば、アリスみたいに。
そういう結果を見たいとは思わなかったけれど、依然として女を殺す男の気持ちがわからなくもなかった。
たぶん、あの渋谷という男は、川崎という女に、たった一秒の静けさすら耐えられなくなるほどに、はげしく魅了されていたのだ。
恋愛が楽しい、恋愛感情は快い、というのは、作られた「物語」に過ぎない。
思い人の愛情を勝ち得なかった人間に待っているのは、終わりのない苦悶に他ならない。
たとえ愛を勝ち得たとしても、嫉妬と猜疑心の迷宮に迷い込み、あるいは言葉を選ぶことを知らない相手に胸を抉られることになるのがオチだろう。
都会的な街を歩いている幸せそうな恋人たち?
あんなものはほかの惑星系で起こっていることだ。
実際のところ、恋愛など墜ちてくる隕石のようなものだ。
ただの厄介ごとにすぎない。
自分のこころを守るためには、魂を奪われないようにするには、その女を殺すほかなかった。
酷暑の日差しに炙られつづけて、数年、数十年をのたうちまわって生きるくらいなら、いっそヤッてしまったほうがいい。
刑務所のなかで心穏やかに過ごすのと、娑婆でこころの拷問に耐えながら生きるのと、どっちがマシかなんて、だれにも決められないだろう。
なんだって、人一人の人生が断たれる、命が失われるだって?
悪いけれど、こっちには、そんなことを気にかけている余裕はない。
脳裏に浮かんだのは、夜中の公園のトイレで、愛する女の死体に包丁をいれてバラそうとしている自分のすがただった。
とうぜん、家庭用の包丁ていどでは腕やひざの関節はなかなか断ち切れない。
薄暗いトイレの個室に黒い血が飛び散り、肉がぬめり、苛立って力任せに刃先を差し込もうとして、あやうく自分の指を切り落としそうになる。
返り血が頬にかかる。
トイレの鏡には、眼が落ちくぼんでやつれた自分の顔が映っていた。
心臓が激しく脈打つ。
クソ、包丁ではなくのこぎりを買ってくるんだった。
血のついたディスカウント・ストアのビニール袋を恨めしく見つめる。
ようやく切り離したマネキンみたいな腕を、惨めな悲しみをかみしめながら、一斗缶におさめる。
もういちど、女を殺す男、と呟いてみる。
トイレの大きな鏡に映る自分が、微笑みかけてくる。
行き場のない、闇に堕ちた人間が、自分のことをわかってくれた人間にむかって浮かべる、悲しい笑みだ。
槐は胸のうちではっきりとこう言った。
確かに、俺はおまえの側にいる人間だ。
俺は女を恐れている。
この胸にある、命より大事なナニカを奪われないようにするために、俺が俺であることの意義と証明に他ならないそのナニカを守るために、俺もいつか、他にどうしようもなく、女を殺すことになるかもしれない。
鏡のなかの男は、黙ってうなづいた。
ああ、そのはずだ、と言わんばかりに。
そのとき、氷点下の突風が駆け抜けて、まわりの人たちの黒髪やマフラー、コートの裾をいっせいに棚引かせた。
槐は頬や首すじに切り裂かれるような冷たさを感じながら、忽然と我にかえる。
そうして、ゆっくりと首を振った。
バカなことを考えるのはもうやめろ。
おまえに女を殺す理由などどこにもない。
面白半分で深淵を覗きこみ、深淵に飲み込まれたらどうするつもりだ。
そうして、石畳の歩道のうえに膝をつきたくなるほど悲しくなった。
眼をひらいて生きていけば底のみえない闇に落ちる。
あの渋谷という男のように。
まぶたを閉ざして生きていけば群衆のなかに落ちる。
たとえば欧州のクラブに移籍したあのクソ野郎をかばった教師たちのように。
どのみち、俺は負け犬じゃないか。
これらの思いを、正直にアリスに打ち明けたらどうなるだろう、と考えてみる。
彼女はきっと、死んだ蟹でも見るような困惑した顔つきをするに違いない。
俺はこんなにドス黒い情念を密かに隠し持っているのに、あの善良な少女のとなりでのうのうとしていていいものだろうか。
しかし、そうは言っても、結局のところ、ひとは一人で生きている。
腹のうちを見せなかったからといって、騙したり裏切ったりしたことにはならない。
槐だって、ひとの抱えている闇をいちいちあげつらう気などない。
人間には、互いに知らなくてもいいことが山ほどある。
けれども、アリスのことがなんとなく気にかかり、足をとめて、振り返る。
街路樹を透かす冬のひかりのなか、人々の黒い頭が、ブラウン運動の分子みたいに揺らいでいた。
あのピンク・ゴールドの美しい髪はどこにも見当たらない。
もし、アリスが渋谷のような男に殺されたら、自分はどう感じるだろう。
きっと許せないと思うだろう。
そのことに気づいて、槐はほんとうに膝をつきそうになった。
なぜ自分はこれほど分裂しているのだろう。
ここまで矛盾するふたつの側面をひきずって、どこを目指して歩いてゆけというのか。
人込みは槐の問いを無視して、朝の魔術街の舗道を足早に行き来していた。
「……おまえらがその答えを知ってる筈もない、か」
と、口もとをゆがめる。
傍から見れば今の自分はかなりオカシイヤツ、だろう。
まあいい。
「……ヘルズエンジェル、アリスとのやりとりを聞いていただろ。
渋谷という男についての報道をまとめて概要をテキストにしてくれないか」
『どのような目的で利用するお考えですか?
友だちとの会話に活用するため?
それとも事件の考察ですか?』
どの切り口からまとめたらいいかを問うているのだろう。
「この男の経歴と、背後関係を中心に整理してくれ。
人柄が分かるようなエピソードもあれば頼む。
ただし本人を直接知っている人間、または信頼できるソースの情報のみに限ってくれ。
登校中なんで数千文字もあるテキストをだらだら読んでいられない。
できるだけ簡潔にまとめて欲しい」
『了解しました。
読み上げましょうか?』
「そうだな、そうしてくれ」
暑すぎて小説が書けない!
(それだけじゃないけど)
更新のスピードを落とさざるを得ません。
週一を目安に、から、不定期、へと変更させてください。




