第8話:夢見
昼間の喧騒は嘘のように夜は静かだった。
事務所の窓から差し込む月明かりが、床に淡い光を落としている。
時計の針の音だけが、静かな部屋に響いていた。
私はソファの上で横になり、りこはその隣で丸くなって眠っていた。
小さな手が、ぎゅっと私の指を握っている。
離すとまた不安になるのだろう。
私はその手をそっと握り返す。
「……大丈夫」
小さく呟き、目を閉じた。
やがて、意識がゆっくりと沈んでいく。
気が付くと、私は雪が降り積もる冬枯れの森の中に立っていた。
落葉樹の隙間から見える空は灰色で、静かな雪が降り続いている。
辺り一面、白。
街も、人も、何もない。
あるのは雪と枯れ木。
それと、風の音だけが遠くで鳴っている。
「……ここ」
吐く息が白く広がる。
寒い。
体の芯まで凍るような寒さ。
その時、小さな手が袖を引いた。
振り向くと、りこが立っていた。
……最初から、いた?
夢の中でも、私の手を握っている。
「なぎ……」
りこの声は震えていた。
「ここ、さむいよ」
私はしゃがみ込み、りこの肩を抱く。
「大丈夫。――夢じゃないから」
そう言いながらも、胸の奥に嫌な感覚が広がる。
ただの夢ではない。
私も反射のように手を握り返す。
でも、周囲の雪景色は、どこか不自然だった。
雪の粒は大きく、落ちる速度も早すぎる。
地面に落ちるたびに、乾いた音ではなく、重い振動が伝わる。
「……ここ、変だ」
私が心の中で呟く。
視界の奥、雪の白がわずかに揺れる。
その揺れ方は、風では説明できない。
まるで雪が、こちらを見ているように蠢いている。
りこが不安そうに私の手を握り直す。
「なぎ……こわい」
胸の奥で、低く唸るような音。
吹雪の向こうで、黒い影がゆっくりと形を変える。
ごつごつとした人の形をしているのに、腕の数が合わない。
最初は小さな点だったのに、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
雪の白に映える、異様な黒。
私は弓を手に取ろうとする。
だが、足元の雪は深く、体の動きを阻む。
一歩踏み出すたびに、重い抵抗を感じる。
「……ダンジョンホールだ」
私の胸に、寒さと同時に恐怖が広がる。
その瞬間、雪が突然舞い上がった。
吹雪の中から、巨大な氷塊の影が立ち上がる。
氷の角、氷の目、鋭く伸びる枝状の突起。
生き物のように、雪をかき分けてこちらに迫る。
りこはぎゅっと私の手を握る。
同じ夢の中で、二人の心は一つになった。
恐怖も寒さも、互いに伝わる。
そして――
黒い影の足元、雪がぱっくりと裂ける。
空間の奥に、異界の入口が口を開いた。
吹雪の向こうに、未知の闇が待っている。
「……行くしかない」
私はわずかに息を整え、りこの小さな手を強く握った。
「だって、ここが出口だから」
雪の異界――大雪のダンジョンホールが、二人を飲み込もうとしていた。
未知の闇の先に飛び込み、視界に映るのは雪の異界。
……抜け出せない。
それでもりこを守るため、私は出口を求めて歩く。
雪の夢界は、思った以上に過酷だった。
足を踏み出すたびに、膝まで埋まる雪。
冷たい風が顔を打ち、息が白く凍る。
でも私の指先はりこの小さな手をしっかりと握っていた。
恐怖を共有し、互いの存在を確かめ合うように。
遠くに黒い影。
最初は小さな点に見えたが、吹雪の中で徐々にその輪郭を現す。
氷と雪で覆われた異形。
脚の数も、腕の数も、普通の生物ではない。
一歩一歩、地面を踏みしめるたびに雪が砕け、鈍い振動が伝わる。
私は弓を構える。
だが、雪が深い。
踏み込むたびに足が沈む。
安定を取る。
息を止める。
――放つ。
「……りこ、大丈夫?」
私の声はかすかに震える。
「なぎ……」
りこが、震える声で名前を呼ぶ。
その声だけで、私の手の震えが止まった。
りこは小さな声で答える。
「なぎ……こわい……」
でも、その手の温もりは私に力を与える。
恐怖に押しつぶされそうになる心を、互いに支え合う。
黒い影が、突然跳躍した。
雪を蹴散らし、異形の腕が二人に迫る。
私は反射的に弓を引き、矢を放つ。
氷の腕に矢が当たり、鋭い音を立てて割れた。
しかし敵は止まらない。
吹雪の中で何本もの氷の腕が蠢き、追いすがってくる。
雪の異界は、それ自体が敵のように圧迫してくる。
私はりこの手を握りしめ、再び矢を放つ。
最初から、そこにしか狙いはなかった。
敵の核を狙い、見える弱点を逃さない。
矢は見事に命中し、氷の異形は後ろに崩れ落ちた。
しかし、倒れた影の向こうから、さらに大きな影が現れる。
「……まだ始まりか」
私は、この場所を“初めてではない”と感じていた。
私は小さく息を整え、りこに囁く。
「怖くても……私たち、負けないから」
りこは眠そうな目を瞬かせ、頷いた。
「うん……なぎといっしょ……」
雪と風の異界の中で、二人の絆が静かに光を放つ。
雪のダンジョンホール――大雪の夢界は、まだ現実には存在しないはずのダンジョンだった。
――けれど、もう“繋がっている”。
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