第59話:――
空気が重い。
発生源はわかっている。
目の前に立つ元人間。
赤い風の揺らぎもなくなった。
代わりに強く、重い。
吹付ける風で身体が押される。
俯いていた頭が上がる。
この顔を知っている。
「――」
緩やかな風が頬を撫でた。
バキッ!
顔に伝わる衝撃。
久しく忘れていた痛み。
いや、失くしていたのかもしれない。
吹き飛ばされ、アスファルトに横たわる。
背中に伝わる硬いアスファルトの感触が懐かしい。
なぜ?
それよりも、どうして見えない?
さっきまで見えていた、3秒先の未来。
"あれ"とのパスは繋がっている。
赤黒いダンジョンの空と同化した風が迫りくる。
青い水で防御。
呆気なく、水の膜は弾けた。
腹部に鈍い衝撃。
未来が見えないんじゃない。
未来が“存在していない”。
存在の変化。
違う。
完全に人を捨てた果て。
――人間だった頃の形は、すでに成立していない。
今さら、それを他人に見せつけられるとは思っていなかった。
ネームドは凪を見ていた。
だが、それは“視線”ではなかった。
ただの情報入力。
「……不要」
小さく呟く。
その瞬間、空気が変わる。
赤い風ではない。
もっと単純なもの。
意味のない揺らぎが、世界から削除されていく。
近くにいたホラーがそれだけで、崩壊した。
純粋な赤。
割れたアスファルトが浮き上がる。
ネームドは黙って、それを見ていた。
赤ではない。
憎悪でも殺意でもない。
もっと空虚で、均質な何か。
凪の周囲から、“揺らぎ”が消えていく。
風が止む。
いや、違う。
風という現象そのものが、成立しなくなっていた。
浮かび上がった瓦礫が音もなく砕ける。
断面は異様なほど滑らかだった。
「……お前」
ネームドの声が、わずかに掠れる。
未来が見えない。
否。
未来へ至る“過程”が存在しない。
目の前の存在は、突然そこに結果だけを出力する。
予知では追えない。
理解した瞬間。
凪が消えた。
反射的に青い水を展開する。
だが。
水は触れる前に崩壊した。
音もなく。
存在を忘れたように。
次の瞬間、ネームドの身体が宙を舞った。
地面へ叩きつけられる。
衝撃。
肺が潰れる。
「……が、は――」
口から血が溢れる。
痛み。
その感覚に、ネームド自身が目を見開いた。
いつ以来だ。
忘れていた。
人間だった頃には、確かにあったもの。
凪は追撃しない。
ただ、見下ろしている。
その目には何もない。
怒りも。
憎しみも。
救済すらも。
ネームドは理解する。
これは復讐ではない。
ただ、“不要なものを消している”だけだ。
周囲のホラー達が一斉に崩れ落ちる。
悲鳴すら上がらない。
輪郭から砕けて、赤い塵へ変わっていく。
ダンジョンの赤黒い空が、軋んだ。
「……そうか」
ネームドは、ゆっくりと立ち上がる。
震える脚。
その感覚すら、懐かしかった。
「お前は――」
言葉が止まる。
違う。
もう、“人間”では表現できない。
凪が一歩、前へ出る。
その瞬間。
周囲の空間が、沈んだ。




