第60話:――
崩れかけた別荘に朝日が差す。
疲労が隠せない表情の紗夜。
獣が傷を癒すように、ソファーで静かに横たわる黒崎。
凪がりこを助けに行ってから会話はなかった。
もうひとつのソファーには安らかな顔で、冷たい母親を紗夜は見つめていた。
「大丈夫、凪なら……」
必ず帰ってくる――その言葉が出てこない。
代わりの言葉は呆気ない。
「……無駄だ」
黙っていた黒崎が口を開いた。
「あれはもう……人じゃない」
紗夜は疲れを忘れたように、黒崎を睨みつける。
「勝手なこと、言うな!」
語尾を荒げた紗夜の目には涙が溜まっていた。
視線がぶつかる。
「本当は理解しているんだろ、無駄だと」
視線は逸らさない。
「アンタに何が解るのよ!」
涙を止めることは、出来ない。
壊れた壁の隙間から差す朝日が涙を照らしていた。
「……そうだな」
痛む身体を押さえながら、黒崎はあちこちボロボロになった天井に顔を向ける。
「俺にはもう関係ないことだ……」
何も言えなかった。
代わりに紗夜は握り締めた手に力を込める。
やがて、朝の静寂を切り裂くサイレンの音が遠くに響く。
「漸く迎えが来たようだ」
その声の温度は低かった。
担架に乗せられ、黒崎が運ばれる。
救急車に乗せられる前に黒崎が隊員を止める。
「紗夜、お前もついて来い。社長を一人にするつもりか」
名前を呼ばれた紗夜は静かに首を振る。
「私は凪とりこの帰りを待つわ」
俯き、二人の視線が合うことはなかった。
救急車の車内、忙しない隊員達を横に言葉が漏れた。
「……そうか」
たったそれだけ。
誰にも届かない言葉はサイレンの音に呑まれていた。
◆
施設があった場所では、ホラーの呻きひとつしない。
支配しているのは、赤色。
青色は沈み、消えた。
ゆっくりと振り向く。
瓦礫の山となった施設跡。
一歩踏み出すことに瓦礫が塵となり、生温い風が運ぶ。
埋もれていたエレベーターの昇降路がだけがポッカリと口を開けていた。
変わらぬ歩速で、踏み出すが落下は緩やか。
一定の位置につけられた非常灯だけが動いていることを認識させる。
音も埃も立つことなく、頑丈な扉が丸く穿つ。
明かりが漏れる。
何かに没頭しているのか、凪の存在に気づかない者。
凪の存在だったものを視界に捉えた者。
等しく消えていく。
やがて、ひとつの部屋の前で止まった。
分厚いコンクリートの壁が消失する。
猫背の男は作業を止めて、振り返る。
「!?お……おぉ」
まるで赤ん坊が初めて歩いたようなヨチヨチ歩き。
そして、目に入ったものに跪く。
「これこそが我々が求めてい――」
空間には静寂が戻る。
唯一、動いているのは複雑な機械のランプのみ。
機械の数値が異常に上昇する。
空気が動いた。
台座の上で複雑な救命機器に似た器具をつけられていた、りこから全てが外れる。
ゆっくりと起き上がり、視線を向ける。
りこの目は虚ろ。
「きてくれたんだね」
でも、口だけは笑う。
「――――」
「……よかった」
りこは台座から降りると一歩、近づく。
りこは凪を見上げる。
そこにいる。
ちゃんと、来てくれた。
でも。
胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。
「……凪」
返事はない。
ただ、赤い空気だけがゆっくりと揺れている。
りこは一歩、近づいた。
凪は動かない。
拒絶もしない。
けれど。
そこに“人”がいる感覚は、もう薄かった。
「……そっか」
りこは小さく笑う。
「戻れなかったんだね」
凪の瞳は静かなまま。
感情は見えない。
でも、りこにはわかった。
壊れたんじゃない。
自分で、捨てたのだ。
その時。
頭の奥で、水音が響いた。
『未来は収束した』
知らない声。
なのに、知っている。
りこの笑みが僅かに揺れる。
「……まだいるんだ」
『残滓だ。いずれ消える』
視界の端で、青い水が揺らめいた気がした。
『だが、お前は特異だ』
「特異……?」
『本来、未来の欠片に耐えた人間は壊れる』
りこは凪を見る。
赤い空気。
沈みかけた空間。
世界から切り離された存在。
『だが、お前は壊れたまま繋がった』
頭の奥で、誰かが笑った。
それが自分なのか、残留思念なのか分からない。
「……変なの」
りこは凪へ近づく。
ゆっくりと、その手に触れた。
冷たい。
まるで、現実じゃないみたいに。
『もう、あれに未来はない』
声が響く。
『過程が存在しない。故に、予測できない』
「違うよ」
りこは静かに呟いた。
「未来がないんじゃない」
凪の手を、そっと握る。
「凪はもう、“未来になる側”なんだよ」
一瞬。
頭の奥の気配が止まった。
『……理解不能だ』
その声は、どこか遠かった。
りこは少しだけ笑う。
「うん。私もわかんない」
でも。
怖くはなかった。
壊れた世界の中で。
赤黒い空の下で。
りこだけが、まだ凪を見つけられる。
「一緒ならいい」
ダンジョンホールの割れた隙間から朝日が差す。
赤黒い空が崩れる
凪もりこも輪郭が少し透けるように見える
「ねぇ、凪」
「――」
「朝だよ」
朝日が、崩れかけた別荘を照らしていた。
紗夜は一人、壊れた窓の外を見つめている。
救急車の音は、もう聞こえない。
静かな朝だった。
握り締めたスマホ。
連絡はない。
それでも。
紗夜は目を逸らさなかった。
「……遅い」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
ただ。
その視線だけは、ずっと遠くを見ていた。




