第54話:代償
「……なぎ」
りこが、名前を呼ぶ。
目の前にいるのは、確かに凪だ。
でも。
もう、違う。
「きてくれたんだね」
笑う。
泣きながら。
「……うん」
凪は答える。
けれど。
その声には、何も乗っていない。
空っぽだ。
「……よかった」
りこは一歩、近づく。
本当は、分かっている。
未来で、何度も見た。
この顔を。
この結末を。
「これで、終わりだね」
凪が言う。
淡々と。
ただの“処理”として。
やがて、微睡みの中。
白が印象的な施設へと運ばれた。
紗夜の運転するバイクは別荘へと戻ってきた。
バイクを停めると紗夜は中へと駆け込む。
玄関で倒れているのは黒崎。
重症で動かすのは危険だ。
「……俺はいいから……社長の元へ」
紗夜は無言で頷くとリビングへと走った。
リビングの壁際、もたれ掛かるように社長はいた。
「社長」
反応が薄い。
嫌な予感がした。
その予感を振り払うように傍へ行く。
「……紗夜かい」
「うん」
「凪は無事かい」
「……うん」
凪は無事だ。見た目だけは……。
凪がリビングへと入ってくる。
その目に感情はなかった。
「凪、おいで」
凪が機械的に近付く。
「紗夜、あれ持ってるかい」
"あれ"がなんなのか、わかった。
ポケットからペンダントを取り出す。
凪の肩がビクッ――と跳ねた。
「貸してもらうよ」
社長はペンダントを受け取ると優しい目で凪を見る。
「……やだ」
明確な拒否。
でも、社長は引かない。
「凪、戻るんだ」
「やだ……やだ……やだ」
凪の頬に優しく触れる。
「お義母さんの最後の頼みだ」
紗夜の目が見開くが何も言わない。
「あ……ああ……」
凪の目は社長とペンダントを行き来する。
「お願いだよ、凪に会わせてくれ」
一筋の涙。
「……お義母さん」
社長は凪の頬に触れる。
だが、その手は冷たく、すぐに落ちた。
隣で紗夜が叫ぶ。
でも、凪から涙は出なかった。
荒れ果てたリビングに紗夜のくぐもった声だけが響いていた。
重症の黒崎さんをリビングのソファーに寝かせ、社長は胸の上で手を組ませた。
誰も、何も喋らない。
黒崎さんの苦悶の顔。
お義母さんの安らかな顔。
でも――もう輪郭が曖昧だ。
「凪、少し休みなさい」
疲れ果てた表情の紗夜。
りこが攫われて、すでに時間が経っているがまともに動ける状態の者はここにはいなかった。
鎮痛剤が効いているのか、黒崎さんが口を開いた。
「悪いんだが……今回で抜けさせてもらう」
その言葉に紗夜だけが表情を変えた。
「……もう、お前達には付き合ってられない」
「……そう」
リビングは再び、沈黙の幕が下りた。
誰も目を合わせない空間。
外は黄昏の時間を迎えようとしていた。
「紗夜、私……」
静かに告げる。
「りこを助けに行ってくる」
「……うん」
紗夜が抱き着いてくる。
だから、私も抱き返す。
これが――最後だから。
紗夜が見守る中、バイクにまたがる。
「必ず戻ってきなさい」
いつからか、“私”という感覚すら曖昧だった。
私は笑顔で応える。
それでも、紗夜の顔がぼやけて、よく認識出来ない。
首にはりことの思い出のペンダント。
唯一、私を繋ぎ止める思いの品。
「行ってくる」
私は振り返ることなく、走り出した。
夜が明ける。
ごめん、黒崎さん。
ごめん、紗夜。
ごめん、お義母さん。
そして――
ごめん、りこ。
私は、ペンダントを握る。
冷たいはずのそれが、わずかに温かい気がした。
思い出が、よぎる。
笑っていた顔。
伸ばされた手。
呼ばれた名前。
――指に、力が入る。
小さく、音が鳴った気がした。
ひびが入ったのかもしれない。
それとも、気のせいかもしれない。
分からない。
ただ、これを壊せば――もう、戻れない。
私は、息を吐く。
震えは、止まらない。
それでも――手は離さない。
「……決めたから」
誰に向けたのかも分からないまま、呟く。
私は壊れる。
全部を捨ててでも、守ると決めた。
だから――
まだ、壊さない。
その代わりに、私は走る。
夕陽を裂くように、バイクを加速させる。
首元で、ペンダントが小さく揺れた。
それはまだ、ここにある。
繋ぎ止めるものとして。
壊すべきものとして。
――次に、手をかけた時には。
私は、きっと……。




