第46話:未満
別荘の中は、人が減ったこともあり異様な静けさに包まれていた。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
黒崎は、窓の外を見たまま動かない。
「……無事に逃げられたのか」
ぽつりと零す。
今、別荘に残ってるのは社長と自分だけ。
返事はない。
紗夜たちが出て行ってから時間が経っていた。
損な役回りだとは、分かってはいたが適任を選ぶ余裕などなかった。
ソファーには、凪とりこが使っていた毛布だけが残されている。
その傍らに座る社長は、目を閉じたまま指でリズムを刻んでいた。
「焦っても仕方ないよ」
落ち着いた声。
だが、その指の動きはわずかに速い。
黒崎は舌打ちを飲み込む。
そのとき。
バイクの音が聞こえた。
紗夜たちは車で逃げたはず……。
――コン。
玄関の方から小さな音。
二人の視線が、同時に動く。
「……今、誰か」
言いかけて、止まる。
もう一度。
――コン、コン。
ノック。
規則正しい音。
この時間、この場所で。
あり得ない訪問でもあり、予想通りの訪問。
黒崎が立ち上がる。
ゆっくりと。
足音を殺して、玄関へ向かう。
「黒崎」
社長が呼ぶ。
短く。
「客じゃない、開けるなよ」
「分かってる」
だが。
ノックは止まらない。
一定の間隔で。
まるで――“中にいると分かっている”みたいに。
黒崎はドアの前に立つ。
息を殺す。
気配を探る。
……分からない。
いる。
確実にいる。
だが、輪郭が掴めない。
嫌な感覚。例えるならば、人成らざる存在。
背筋に、冷たいものが走る。
「ねえ」
扉越しから声がした。
若い女の声。
やけに明るい。
「いるの、分かってるよ?」
黒崎の瞳が細くなる。
――こいつらが"ネームド"か。
「開けてくれないなら」
少しだけ、間。
楽しむような。
「壊すね?」
その瞬間。
黒崎は飛び退く。
経験と反射で。
直後。
――ドンッ!!!
扉が、内側に“膨らんだ”。
身構えるが扉は破壊されていない。
だが。
明らかに、外から“押された”。
異常な力で。
足元から水が流れ込んでくる。
「チッ!まさか!水を操るのか!?」
黒崎が舌打ちする。
次が来る。
分かる。
社長が、ソファーから立ち上がる。
その目は、剣呑だった。
「黒崎、時間を稼げ」
「最初からそのつもりだ」
黒崎は銃を構える。
どんな相手であろうと対応出来るように、その目は扉を見据える。
だが――静かになった。
ノックも、気配も、消える。
不気味な沈黙。
「……来る」
黒崎が呟いた、その直後。
――上。
天井が、軋む。
「なっ!?」
一瞬の困惑。
次の瞬間。
――バキィッ!!
天井が、内側に水圧で“抜けた”。
木片と水が降り注ぐ。
その中を一人、落ちてくる。
軽やかに、音もなく。
床に着地。
「正解」
黒崎の前に現れたのは女だった。
にこりと笑う。
まるで遊びに来たみたいに。
「下じゃないよ?」
指を立てる。
その仕草の直後。
玄関の扉が、静かに開いた。
軋む音もない。
そこに立っていたのは若い男。
水を操る女の兄だった。
無言で。
ただ、そこに女よりも感情のない顔で。
「……分断か」
兄からこぼれた抑揚のない言葉。
「うん」
妹が軽く頷く。
「そっちが当たり?」
楽しそうに。
「どっちが先に壊れるか、競争しよ」
兄妹が話をしている最中、黒崎は一歩踏み込む。
迷いはなかった。
距離を詰める。
一撃で仕留めるつもりでトリガーに力を込めようとした。
だが――女は消えた。
「遅いよ」
真横で声がした。
耳元でだ。
反応が間に合わない。
――ドンッ!!
黒崎の身体が水流によって、壁に叩きつけられる。
室内に走る衝撃。
体の中で骨が折れる音がした。
「っ……!」
だが黒崎は倒れない。
踏みとどまる。
血を吐きながら、笑う。
「……上等だ」
その目は、死んでいなかった。
一方。
玄関側では兄が、一歩中に入る。
無音。
視線は、室内を探る。
――目標を探して。
リビングから社長の声が届く。
「残念だが」
軽い口調。
「ここにお前達の目的の者はいないよ」
銃を構えたままで。
兄は声がする部屋へとただ、歩く。
一直線に。
戸惑うことなく、リビングに足を踏み入れる。
姿が露わになる。
「……なるほど」
社長が、小さく笑う。
「あんたらはまだ、……“ネームド未満”か」
その言葉に兄の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
そして――
消える。
次の瞬間。
社長の目の前に拳が放たれた。
一直線。
空気を裂く。
だが――鼻先で止まる。
見えない何かに、触れたように。
「何処にいるのか……言え」
――次は止めないと言外に。
「悪いね」
社長の目が、わずかに細くなる。
「言うわけないだろ」
空気が、張り詰める。
玄関では、黒崎と妹。
リビングでは、社長と兄。
別荘の中で。
再び戦いが、始まる。
そして――
そのすぐ外。
森の奥。
誰も気づかない位置で。
“それ”は、すでに見ていた。




