第41話:初触
扉が閉まる音が、静かに落ちた。
足音が遠ざかる。
……消えた。
完全に気配がなくなるまで、私は動かない。
視線だけを、扉に向けたまま。
やがて、瞬きを一つ。
「……あれ」
小さく、漏れる。
手を見る。
さっきの感触。
重さ。温度。圧。
全部、覚えている。
再現できるはずだった。
視線を横のりこへ。
寝ている。
無防備。
「……」
伸ばす手にためらいはない。
必要かどうかも、考えない。
ただ――同じように頭に触れる。
そっと、同じ位置、同じ力で。
撫でる。
一度。
二度。
三度。
ズレはない。
ほぼ、同じなのに。
「……違う」
手は止まらない。
動きは一致している。
でも。
「同じはずなのに」
眠っている顔を見る。
拒絶も、反応も変化はない。
何もない。
「……なんで」
どこにも向けていない言葉。
少し、強く押す。
反応なし。
弱める。
変わらない。
速度を変える。
間を空ける。
回数を増やす。
――全部、違う。
手が止まる。
数秒。
「……分からない」
手を見る。
同じ形、同じ構造、同じ動きはできている。
なのに。
「さっきのは……」
止まる。
言葉がない。
定義できない。
手を引いて、膝の上へ戻す。
りこは眠っている。
変わらない。
呼吸は一定。
しばらく、見る。
観察。
確認。
「まあ、いいか」
保留。
それ以上でも、それ以下でもない。
横になって、目を閉じる。
でも、思考は止まらない。
同じ動き。
同じ条件。
結果が違う。
――何が違う。
答えは出ない。
だから、もう一度試す。
次は、別の方法で。
別の対象で。
もっと、正確に。
眠らないまま、私は“次”を組み立てていた。
朝。
空気が冷たい。
静か。
窓の外。
風。
一定。
乱れはない。
目は開いている。
眠っていない。
ずっと、隣にはりこ。
まだ寝ている。
寝返り。
小さな息。
「……」
見る。
観察。
記録。
昨夜の再現は不完全。
同じ動きでは、同じ結果にならなかった。
――要素が足りない。
あるいは条件が違う。
音は立てないように身体を起こす。
視線はそのまま。
小さくて無防備。
反応を返す。
……使える。
「……試す」
手を伸ばす。
今度は、頭じゃない。
頬。
触れる。
柔らかい。
指で、軽く押す。
反応なし。
眠っている。
少し、力を加える。
沈む。
戻る。
変化なし。
「……違う」
離す。
数秒。
呼吸は一定。
心拍の乱れなし。
異常なし。
違う。
これは、起こす行為じゃない。
求めているものじゃない。
“あれ”は、違った。
拒絶されない。
恐れられない。
それでいて――
「……」
思考。
分解。
社長の手。
りこの状態。
あの時の空気。
再構築。
条件を並べる。
――足りない。
手を伸ばし、胸元の手を取る。
温度。
脈。
微弱な動き。
観察。
少し、強く握る。
「……っ」
反応。
眉が動く。
成功。
……でも。
すぐに戻る。
静かになる。
持続しない。
「……不十分」
止める。
違う。
これは違う。
“あれ”じゃない。
視線を落とす。
自分の手。
同じ形、同じ構造、同じ動きはできている。
なのに。
「……なんで」
条件は揃えている。
触れている。
反応もある。
でも、一致しない。
あの時にはあったはずの、何か。
再現できない。
「……足りない?」
視線を落とす。
手。
同じ。
なのに。
「……中?」
言葉が落ちる。
理解は、できない。
でも、差はある。
確かに動かない。
少しだけ、長く見る。
もう一度、手を伸ばす。
今度は、考えない。
ただ、触れる。
頭をそっと。
動かさない。
力も加えない。
置く。
「……」
変化なし。
眠ったまま、世界も、同じ。
でも、そのままにする。
理由はない。
必要もない。
……やめる理由もない。
時間が流れる。
数秒。
数十秒。
「……まあ、いいか」
理解できない。
再現もできない。
でも、否定する必要もない。
手を引く。
目を閉じて横になる。
思考は続く。
次は、別の条件。
別の状況。
別の対象。
もっと近づける。
もっと正確に。
もっと――その先は、まだない。
それでも私は、なぞり続ける。
人間を。




