第40話:社長
廊下の奥。
壁にもたれかかるようにして、社長は立っていた。
私は最初から、起きていた。
あの子の“中身”が、変わったかもしれないと分かっていて、眠れるわけがない。
紗夜が部屋に入っていくのも、気配で感じていたし見てもいた。
でも、止めなかった。
――止められなかった。
静寂の中に扉越しから、かすかな声が混じる。
会話だ。
普通の。
あまりにも、普通すぎる会話。
「……」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
その“普通”が、異常だと分かってしまうから。
やがて、扉が開く音。
紗夜が出てくる。
顔色が悪い。
だが、何も言わない。
言えないのだろう。
私と一瞬だけ目が合う。
その視線で、十分だった。
――同じものを見た。
「……起きたのかい」
「……ええ」
「そうかい」
それ以上は踏み込まない。
踏み込めば、紗夜が抱いたものを“確定してしまう”からだ。
ゆっくりと、扉へ向かう。
「社長――」
紗夜の手が伸びるが途中で止まる。
「……やめた方がいいわ」
珍しく、はっきりとした制止。
でも、視線は下を向いていた。
私に読み取られたくなのは、自身の不安なのか、はたまた凪への執着なのか。
「だろうね」
だが、私は止まらない。
「でもね」
ノブに手をかける。
「“やめた方がいい”で済ませられる段階は、もう過ぎてる」
私の言葉で息を飲む紗夜を置いて、静かに扉を開ける。
部屋の中。
凪は、まだ起きていた。
ベッドの上。
同じ姿勢で、こちらを見ている。
まるで分かっていたかのように。
「……社長」
「起きてたのかい」
「うん」
短い返事。
私は一歩、部屋に入る。
床がわずかに軋む。
凪は瞬き一つせず、その動きを追っている。
「体はどうだい」
「問題ないよ」
即答。
私は、ベッドの横まで移動する。
距離は、腕一本分。
呼吸。
体温。
――どれも、ある。
自然で、りこが違和感なく寝れるほど。
なのに。
そこに“いる感じ”だけが、抜け落ちている。
「……」
私は何も言わずに凪を見る。
凪も、私を見返す。
数秒。
沈黙。
「ねえ、社長」
「なんだい」
「どうして、そんな顔してるの?」
何故なのか理解していない問い掛け。
「どんな顔だい」
わずかに口元を歪める。
「……諦めた顔」
一切の迷いなく、言い切る。
空気が、揺れた。
――この子は同じ形をしているだけだ。
だが。
「そうかい」
私は、笑った。
いつもと同じように。
「歳を取るとね、そういう顔にもなるのさ」
「ふーん」
興味がないのか、あるいはもう分かっているのか。
「ねえ、社長」
「なんだい」
「外、どうなってるの?」
私は考える。
この子が何を思って、聞いてきているのかを。
「酷いもんさ。街はボロボロ、人もずいぶん減った」
「そっか」
淡々と、頷く。
その反応は悲しいほどに予想通り。
「じゃあさ」
一拍。
「これから、どうするの?」
質問。
――やっぱり。
これは、状況を測っている声だ。
「どうする、ねえ」
私は、ゆっくり息を吐く。
「まずは」
一歩、距離を詰める。
「守るさ」
目を離すことなく、静かに言い切る。
「――あんたをね」
凪の目が、わずかに細くなる。
「ふふ」
小さな笑い声――心底、可笑しい、理解出来ないと。
「変なの」
「そうかい」
凪は、ゆっくりと首を傾ける。
「私なんて守る必要、あるの?」
――本気で分からない、という顔で。
その一言で、すべてが確定した。
私は、ゆっくりと手を伸ばす。
――撫でるために。
何度も、そうしてきたように。
だが。
その手は、触れる直前で止まった。
「……それ、なんの動き?」
凪が、不思議そうに見る。
「必要な行動じゃないよね」
私は、一瞬だけ目を閉じた。
――もう、“あの子”じゃない。
それでも手を引く理由には、ならなかった。
「……関係ないさ」
小さく、呟く。
「必要かどうかで、やることを決めた覚えはない」
そして、今度こそ。
その頭に、手を置いた。
「あるに決まってる」
迷いなく、言い切る。
「それが人間だからだ」
凪は、わずかに目を細める。
「……ふーん」
一拍。
「やっぱり、おかしいね」
そして――少しだけ、笑った。
「可笑しくなんてないさ、人は感情で動く」
初めて見せる考えるそぶり。
「でも、それ」
ほんのわずかに、楽しそうに。
「嫌いじゃないかも」
「そうかい」
私は、笑う。
いつもと同じように。
その奥にあるものを、誰にも見せないまま。
凪も、笑った。
そういう時に笑うことを知っている顔で。
――少なくとも、“壊れる前の凪”には似ていた。
だがその笑みが、今も同じ意味を持っているかは――誰にも分からない。
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