第37話:二人の自分
音が、しない。
世界から、すべてが剥ぎ取られたような静寂。
凪は、底の見えない黒の中に立っていた。
足元は水のように揺れているのに、沈まない。
空も地面も境界がない。
ただ、自分だけがそこにある。
――ここは、内側だ。
理解はすぐに落ちてきた。
そして同時に、“外”も見えている。
視界の奥。
赤。
深紅の光が、何度も瞬く。
矢が放たれる。
貫く。
砕く。
躊躇はない。
迷いもない。
ただ、殺す。
「……上手くやってる」
ぽつりと呟く。
感情は、驚くほど平坦だった。
あれは自分だ。
でも、自分じゃない。
――正確には。
「私の中で、一番都合のいい部分」
口元が、わずかに歪む。
ホラーは元人間。
それを理解した瞬間、自分は壊れた。
いや――
「壊れたんじゃない」
黒い水面に、自分の顔が映る。
ひび割れている。
いくつにも分かれた、自分。
「壊した」
自分で。
選んで。
分けた。
思い出す。
矢が人に刺さった時の感触。
肉の抵抗。
骨の軋み。
そして、その奥にあった“人だったもの”。
吐き気がする。
でも、吐かない。
ここには身体がないからじゃない。
「吐いたら、終わるから」
その先は、知っている。
何もできなくなる。
動けなくなる。
――守れなくなる。
視界の奥で、また一体、ホラーが倒れる。
正確だ。
綺麗だ。
無駄がない。
「……いいよ、それで」
肯定する。
あの動き。
あの判断。
あの“殺し方”。
全部、自分にはできない。
だから、あれにやらせる。
「最初から、そうすればよかった」
『凪!』
紗夜の声だ。
どうして、そんなに辛そうな顔してるの?
私は上手くやってるよ。
社長、なんで悲しい顔してるの?
私、強くなったでしょ?
『嬢ちゃん!』
黒崎さん……私を止めるの?
でも、駄目だよ。
私は守りたいの。
……私を。
黒い水面に波紋が広がる。
ほんの少しだけ、何かが揺れた。
――その時。
『なぎ……』
声が、落ちてきた。
小さい。
震えている。
泣きそうな声。
りこ。
その名前を認識した瞬間、胸の奥が強く軋む。
黒の中に、ひびが走る。
光が差し込む。
「……来たんだ」
吐き捨てるように言う。
嬉しい、とは思わなかった。
むしろ、苛立ちに近い。
「なんで来るの」
守るべき対象が、ここにいる。
それ自体が矛盾だった。
光が近づく。
温かい。
優しい。
柔らかい。
――邪魔だ。
そう思った瞬間、自分でも驚くほどはっきりした感情が浮かぶ。
「やめて」
低く言う。
「それ、いらない」
光が、少し揺れる。
でも消えない。
しつこく、近づいてくる。
『なぎ……やめて……』
声が届く。
胸の奥に刺さる。
痛い。
思い出したくない感覚が、無理やり引きずり出される。
怖い。
苦しい。
助けてほしい。
――うるさい。
「黙って」
強く言い切る。
黒い水面が大きく波打つ。
「それ、私に必要ない」
言葉にすると、少しだけ楽になる。
そうだ。
いらない。
あの感情は、邪魔だ。
あれがあると、迷う。
止まる。
間違える。
――守れない。
視界の奥の“もう一人”は、止まらない。
目が合う。
完璧に、機能している。
それでいい。
それが正しい。
「だから」
一歩、踏み出す。
光との距離が、わずかに縮まる。
りこの輪郭が、ぼんやりと見える。
泣いている。
手を伸ばしている。
――それでも。
私は、その手を取らない。
「それは、あっちにやらせる」
静かに言う。
「優しくするのも、守るのも」
自分は違う。
ここにいる自分は、
「選ぶ方だから」
何を捨てるか。
何を残すか。
それだけを決める存在。
「怖がるのも、泣くのも、やめて」
視線を逸らす。
見てしまうと、揺らぐから。
「それ、全部いらない」
胸の奥が、冷えていく。
代わりに、思考がクリアになる。
痛みが、薄れていく。
「壊れるなら、ちゃんと壊れたい」
中途半端が一番いらない。
迷いも、後悔も、罪悪感も。
全部、残すくらいなら。
「全部、捨てる」
言い切る。
その瞬間、黒が深くなる。
光が、遠ざかる。
りこの声が、歪む。
『なぎ……』
聞こえる。
でも、届かない。
私は目を閉じる。
その表情は、静かだった。
「大丈夫」
誰に向けたのかも分からないまま、呟く。
「守るから」
その言葉には、もう迷いはなかった。
ただし――
そこに“自分”は含まれていなかった。
次の瞬間。
深紅の光が、外の世界で強く脈打つ。
矢が放たれる。
より速く。
より正確に。
より“何も感じずに”。




