第36話:あの時の思い出
矢は止まらなかった。
壁を貫き、床を裂き、ホラーを次々と撃ち倒す。
――だが、力の暴走は凪の意思を超え、周囲の人間や物まで赤い光で包み込んでいく。
「凪、やめて!」
「嬢ちゃん、やめろ!」
紗夜の声も黒崎の声も届かない。
社長はりこに見えないように守る。
黒崎はゆっくりと銃のトリガーに指をかけていた。
だが、りこの小さな手が凪に伸ばされるのを見て、動けなくなる。
凪の目は赤く光り、ホラー以外のものは見えていなかった。
部屋の家具は壊れ、ガラスが粉々に砕ける。
階下の事務所の壁にかかっていた絵や書類も、赤い光の中で崩れ落ちる。
振動で社長がバランスを崩し、りこが腕からこぼれる。
りこは泣きながら駆け寄る。
「なぎ!やめて!おねがい!」
凪の視線はまだ赤く燃えている。
口角は上がりきり、歪んでいた。
矢を構えた手は止まらず、周囲の物にまで次々と突き刺さっていく。
りこはためらわず、全身で凪に飛びついた。
首にかけるペンダントが揺れる。
小さな体が凪の胸に抱きつき、腕にしがみつく。
「なぎ……おねがい……もう……やめて……」
お揃いのペンダントトップが千切れ、彼女の視界に入る。
その瞬間、凪の赤い光が揺らいだ。
矢を放つ手がわずかに止まる。
呼吸が乱れ、心臓が跳ねる。
目の奥で、暴走する力がうねる。
だが、りこの温かさ、必死の声、そして床に落ちるペンダントが、凪の心の奥に触れる。
「りこ……」
その声は、呟きのように震え、力の暴走をかろうじて止める。
深紅の矢は止まり、部屋に散乱していた光が静かに消えていく。
凪は床に膝をつき、震える手でりこを抱き返す。
りこは泣きながらも、凪の顔を見上げている。
「……こわかった……でも、なぎ……まもってくれた……」
凪は微かに笑みを浮かべる。
「りこは……私が守るって決めたから……」
力の余韻でまだ熱を帯びた深紅の弓は、もう静かに消えようとしていた。
周囲は、粉々になった机や壁を前に、息を呑むだけだった。
黒崎も紗夜も社長も言葉を失い、ただ三人の間に生まれた静寂を見守る。
凪の中の赤い光は、りこの存在によって、ようやく安定を取り戻したのだ。
震える手でペンダントを拾う。
定まらない視線で、りこに渡す。
肩から大きく震える手をりこは両手で握り締める。
血の気がひき、冷たくなっていた手は優しさに包まれた。
その温もりが脳に届くと、凪は倒れた。
「なぎ!」「凪!」「……」
紗夜が駆け寄る。
「ここはもう危ない、移動するよ」
社長が紗夜の肩に手を置いた。
「私が先行する」
涙を拭い、血が滲む手で刀を抜いた。
その様子を静かに見つめ、黒崎は銃を肩に掛け直し、凪を担ぐ。
廊下の壁は穴だらけで、外から生臭い血の匂いが入ってくる。
室内は静かな分、外からの悲鳴がよく届くが気にする者はここにはいない。
あれだけいたホラーは凪が片付けてしまったのか、あるいは恐れを抱いて逃げたのか。
地下の射撃場に向かうまで会うことはなかった。
射撃場の扉を施錠すると全員から安堵の息が漏れた。
黒崎は壁際にあるベンチに凪を寝かす。
社長は暗闇で何も見えない、りこの為に凪の手を握らせる。
「これからどうするよ」
口を開いたのは黒崎だ。
その声には苛つきが混じっていた。
「どうするもこうするもダンジョンホールが終わるまで待つしかないわよ」
紗夜の声には焦燥感が漂っていた。
「二人とも落ち着きな」
社長の声は誰よりも重かった。
見えないのに感じないのに無駄口は許さないという意思があった。
社長はりこの傍に膝を着くと打って変わって、優しく聞く。
「りこちゃん、夢で見たのと同じかい?」
首だけで返事をする。
「……そうかい。その時、凪はどうだった?」
りこは一段と凪の手を強く握った。
それは怖くて、辛くて、悲しかった夢の記憶。
「なぎ……くるしんでた……たすけてって」
りこの涙が凪の手に落ちる。
「でも……こえがでないって……からだがうごかないって……」
手の中のペンダントトップ。
その桜の花びらが僅かに揺れていた。
りこの言葉で重たい沈黙が落ちた。
黒崎はポケットから煙草を取り出し、口に咥える。
だが、ライターを出したまま動かない。
カチ、と乾いた音だけが一度鳴って、止まる。
「……助けを求めてた、か」
低く呟く。
誰に向けたわけでもない声だった。
紗夜は俯いたまま、強く拳を握る。
「……やっぱり、凪は……」
言葉にすれば壊れそうで、飲み込んだ。
代わりに、りこと凪の繋がれた手を見る。
自分では止められなかったことに苛立ちと、焦りと、わずかな恐れが混じる。
「暴走の度に、りこに止めさせるの?」
黒崎の指がわずかに動く。
ライターの火は、まだつかない。
「……それしかねぇなら、そうなるだろ」
短く返す。
だがその言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
紗夜が顔を上げる。
「本気で言ってるの?」
「他に方法があんのかよ。あの力を見ただろ」
即答だった。
空気が張り詰める。
その間に、社長が静かに息を吐いた。
「――間違っちゃいないね」
二人の間に、落とすように言う。
黒崎も紗夜も視線だけを向ける。
社長はりこの頭をそっと撫でたまま、続ける。
「凪の中には、まだ本人がいる」
その目はどちらを見ていたのか。
「りこちゃんだけが、それに触れられる」
りこの手を包む凪の指が、かすかに動く。
気のせいかもしれない程度に。
だが、その場の全員が気づいた。
紗夜が息を呑む。
黒崎のライターの火が、ようやくつく。
小さな炎が揺れる。
「……厄介だな」
吐き出した煙は、どこか重かった。
社長は微かに笑う。
「だからこそ、だよ」
優しい声のまま、言葉は冷静だった。
「この子をどう使うかで、全部変わる」
その一言で、空気が変わる。
紗夜の表情が強張る。
「“使う”って……」
社長は否定も肯定もしない。
ただ、静かに言った。
「守るだけじゃ、足りない状況になってる」
沈黙。
「ハンターは生き残った者が正しい」
遠くで、何かが崩れる音がした。
「あくまで最終手段だがね」
りこは何も言わず、ただ凪の手を握り続けている。
ライターの火だけが、暗闇で揺れていた。
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