第32話:予兆
ここから先は覚悟のある方のみ、お読みください。
タグ通り、救いはありませんので……。
目が覚めた時、隣にはりこの寝息があった。
規則正しく、穏やかな呼吸。
それを聞いているだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
――はずだった。
私は天井を見つめたまま、瞬きをする。
視界に、ノイズが走る。
黒い影のようなものが、天井に張り付いている。
違う。
影じゃない。
“人”だ。
張り付いているのは、天井じゃなくて――
私の目の方。
「……また」
小さく呟く。
まぶたを閉じても、消えない。
あの時と同じ。
ダンジョンホールの中で、ホラーを撃ち抜いた瞬間。
崩れ落ちるそれが、確かに“人間の顔”をしていた。
目を開ける。
天井はただの天井に戻っている。
けれど、一度見えたものは消えない。
脳の奥に焼き付いている。
あれは敵じゃない。
最初から、ずっと――
「……人間」
口に出してしまうと、やけに軽かった。
りこが寝返りを打つ。
小さな手が、私の服を掴む。
「……なぎ」
寝言。
それだけで、呼吸が乱れる。
私はその手を、そっと握り返した。
温かい。
生きている温度。
ここにあるものは、ちゃんと“人”だ。
じゃあ、あれは?
ダンジョンホールの中で、私は何を撃っていた?
何を壊していた?
何を――
考えるのをやめる。
思考を止めるのは、得意だった。
そうしないと、動けなくなるから。
ゆっくりと、りこの手をほどく。
起こさないように、ベッドから抜け出す。
足音を殺して、部屋を出る。
廊下は静かだった。
事務所の方から、かすかに気配がする。
まだ誰か起きているのかもしれない。
でも、そっちには行かない。
今は、誰とも話したくない。
階段を降りる。
玄関のドアに手をかける。
一瞬だけ、迷う。
――どこに行くの?
そんな声が、頭の中で響く。
「……少しだけ」
誰に言うでもなく、呟く。
ドアを開ける。
外の空気が、頬を撫でた。
ひんやりとしていて、気持ちいい。
でも、それだけじゃない。
“匂い”がする。
鉄のような、湿った匂い。
思わず、笑ってしまう。
「……呼ばれてる」
足が、自然と動く。
考えるより先に、身体が反応する。
まるで――
“あっちが正しい”と知っているみたいに。
路地を曲がる。
人気のない暗がり。
そこに、“それ”はいた。
人の形をしている。
でも、歪んでいる。
膨れ上がった肉。
引き裂かれた顔。
それでも――
私の目には、はっきりと映る。
泣いている。
助けを求めている。
“元人間”。
「……ああ」
喉の奥から、声が漏れる。
怖いはずなのに。
吐き気がするはずなのに。
足は止まらない。
一歩、踏み出す。
それがこちらに気付く。
腕を振り上げる。
襲ってくる。
分かっている。
これは敵だ。
これは倒さなきゃいけない。
これは――
殺さなきゃいけない。
弓を構える動作。
私の手から深紅の弓と矢が現れる。
ダンジョンホールで発現する赤い力を感じる。
狙いもブレない。
完璧だった。
矢を放つ。
貫く。
崩れる。
その瞬間。
“ありがとう”と、聞こえた気がした。
私は――
笑っていた。
「なぎ、そっち……だめ」
りこの声が聞こえた。
胃が空っぽで、鈍く痛んでいる。
さっきまでの夢の感触が、まだ喉に残っている気がした。
夜の事務所は、いつもより静かだった。
最近、見るようになった夢。
りこは私の隣で寝息を立てている。
その穏やかさに、空腹感を思い出す。
私は疲れて、ずっと寝ていたようだ。
机の上には紗夜の字でメモが一枚。
夕食は取ってあるから、温めて食べなさいと書いてある。
ドアの隙間から、ひとつの気配が差し込む。
――その瞬間、視界にノイズが走った。
視線を向けると――
闇の中、元人間のホラーが這いずり出ていた。
崩れた肉体、歪んだ表情。
それでも、目は確かに生きていた。
心臓が跳ねる。
血の匂い、恐怖、――全部が私を刺激する。
突然、体が勝手に動いた。
手を突き出すと深紅の弓が現れた。
同時に身体の力が抜けていく。
視界が歪む。
暗闇の中で、獣のような感覚が全身を駆け巡る。
――止められない。
矢が勝手に飛ぶ。
腕が、自分の意思より先に反応する。
標的の動きも、心の奥の恐怖も、すべて透けて見える。
あっという間にホラーは倒れた。
でも、息を吸うと、頭がくらくらする。
体が重い。
膝がガクガクと震える。
視界がぼやけ、耳の奥がキーンと鳴る。
床に膝をつき、手をついて呼吸を整える。
倒した敵を思い出す。
――人間だった。
それでも、笑ってしまう自分がいた。
力があった、完璧に狙えた、怖くなかった――
けれど次の瞬間、胸に重苦しい虚しさが押し寄せた。
力は戻らない。
意識は揺れる。
覚醒は短く、儚く終わったのだ。
りこの寝顔を覗く。
その無垢な寝顔を見て、胸が痛む。
「……怖い、なんて言えない」
声は小さすぎて、誰にも届かない。
自分の手を見つめる。
でも、それでいい。
覚醒した力の余韻を、誰にも見せたくなかった。
私はゆっくりと立ち上がる。
まだ体は震えている。
でも、知っている。
――力は、確かに私の中にある。
指先にまだ微かに残る、赤い弓の熱。
それが消える前に、私は次へ進む。
ただ、安定していないだけだ、と。
次は、もっと長く。
次は、もっと正確に。
静かに、夜は更けていった。
それが正しいと、思えてしまう。




