第1話「図書室の片隅で名前を探す」
図書室の静寂は、いつもより少しだけ重かった。
白井ことねは今日も、誰もいない午後の図書室で本を整理していた。紙の匂い、ページをめくる音、指先に伝わる活字のざらつき。それだけが、彼女にとっての安心だった。
――でも、違和感は突然やってきた。
教室に戻ると、クラスメイトたちは昨日の出来事を楽しそうに話している。けれどことねは、自分がその場にいたことすら、まるで記憶から抜け落ちているように感じた。
「……私、昨日何したんだろう?」
誰かに話しかけても、笑顔が返ってくるだけで、昨日の自分の居場所はどこにもなかった。居なくなったわけじゃない。存在はそこにあるはずなのに、誰の目にも映らない――まるで、自分だけがページから消された登場人物のようだった。
放課後、ことねはひとり、図書室で本を開いた。そこに、転校生の結城悠斗が座っていた。彼は誰も借りない古い本を手に取り、静かにことねを見つめている。
「君、昨日のこと、覚えてる?」
「え……?」
「君の名前はページに書かれている。だから僕は覚えてるんだ」
悠斗の言葉は、ことねの心の奥で小さな光を灯した。名前を書くだけで、消えない存在になれる――そんな奇妙な法則が、本の世界にはあるらしい。
ことねはふと、自分の手元の本に目を落とした。誰かの名前が鉛筆で書かれている。ページの端、ひっそりと。忘れられた記憶の断片のように、確かにそこにあった。
――私も、ここに名前を書けばいいのか。
ページに指を添え、ことねは小さく息を吸った。鉛筆を握り、名前を書く――その瞬間、空気がわずかに震え、図書室の静寂が深くなる。
「これで、少しは――忘れられないかな」
悠斗はにっこり笑った。
「大丈夫、僕が覚えてるから」
忘れられる少女と、覚える少年。図書室の片隅で、ふたりの不思議な物語は静かに、そして確実に動き出した。




