狂乱
「――さぁ、いらっしゃいな。子ネズミちゃん」
天使の女の言葉に立ち尽くすクロノに地響きを立てながら巨人の男がゆっくりと歩いてくる。
天使は妖艶に笑い、巨人はさも愉快そうに笑う。目の前で見るとその巨大さがよくわかる。まるでそびえ立つ崖だ。
クロノに伸びる太い腕。しかしクロノは動けない。
「【風壁】!」
「【障壁】!」
「【障壁強化】!」
マッキーとぷれあです達がクロノの前に飛び出し、三者三様に魔法を唱える。そのおかげで巨人が伸ばした腕はクロノまで届くことなく弾かれた。
「クロノ!何をやってるんだい!早く正気に戻るのだよ!」
「くま!ますたになんたるいいぐさです!まあとっさのぼうぎょだけはほめてやるのですよ!」
「ますた、ますた!でかいのやばいですー!」
これまた三者三様に声を上げる。しかしクロノはこの声で我に返った。咄嗟に反応できなかった自分に舌打ちをしたい気持ちを抑えながらクロノは後ろに飛び退り、巨人と距離を取る。
クロノは思考する。
相手の正体が不明な今、戦うのは得策ではない。しかも相手は確実にやばい。明らかに狂人の類だ。そんな奴といちいち戦っていられない。
クロノは戦闘狂ではないのだ。わざわざ戦って恨みを買うのも御免だ。
そう考えるとクロノは即座に魔法を発動した。
「――【流星速】!」
「あらぁ、だめよぉ。逃げるなんて……【劇的な幕開け】」
クロノが魔法を唱えると同時に女が指を鳴らしながら言う。
次の瞬間、駆け出したクロノの足は勝手に止まっていた。驚いたクロノは魔法を使ったであろう女を見る。
「アハハハハハハ!役者が舞台を降りようなんて無粋じゃなぁい?大丈夫よぉ。ただ逃げられないだけ。ハナエルを倒したら開放してあげる。それに今回は私は舞台演出。役者は貴方達とハナエルだけだからぁ。アハハハハハハ!」
いつの間にか天使の女はいつの間にかその純白の翼で空へと飛びあがり、クロノ達を楽しそうに眺めていた。
「ほらぁ、ハナエル!名乗りをなさい!名乗りは大切よぉ。ほらほらぁ」
女は急かすように巨人の男に言う。その様子は楽しいことを前にした子供のようだ。
ハナエルと呼ばれた巨人の男はそれに従い、名乗りを上げた。
「オデ、ハナエル。シトガヒトリ、『ツミオカスモノ』。グヒッ!オバエ、オレニゴワザレロ!」
「阿呆みたいだけどまぁいいわぁ。よくできました。演出はこの使徒が一人。『空の軍勢』、ハマリエルで御送りいたしまぁす」
ふざけた口調でハマリエルと名乗った天使の女はケラケラと笑う。
――使徒?なんだそれは?
使徒と聞いて真っ先に思い浮かぶのは宗教だ。
聖教会か?しかしこんな信仰心の欠片もなさそうな奴らが聖教会に所属していたりするのだろうか?
「……お前ら聖教会の所属か?」
念のためクロノは問う。しかしそれを聞いたハマリエルは案の定というべきか怪訝な顔をした。
「聖教会?あぁあの小蝿共の事かしらぁ?全くうざったいたらないわよねぇ。そういえばそこに転がってる腐肉も聖教会の人間だったかしら?あんなのと一緒にするなんて酷いわぁ」
「じゃあお前らは何もn――!!」
クロノの再びの問いかけは最後まで続かなかった。ハナエルの巨大な拳が眼前に迫って来たからだ。クロノはすかさず発動していた【流星速】のスピードを利用してハナエルの巨体の後ろに回り込む。すでにマッキーとぷれあです達はクロノの懐へと退避している。
「――このッ!人の話は最後まで聞け!!」
光の筋を残しながらハナエルの巨体を空に向かって駆け上がったクロノは腰から抜いた魔法剣で背中を切り裂く。皮膚が固いのか上手く刃が通らない。
「【星法覇気】!【星塵帯剣】!」
【星法覇気】はクロノ自身が星魔法を纏うことによって全ステータスに上昇効果を得るもの、【星塵帯剣】はその武器への付与バージョンだ。
強化されたことで切れ味を増した斬撃は絡み合い一条の光となってハナエルを引き裂いた。【手加減】は行っていない。目の前で無残に人を殺したこの狂人に手加減が出来るほどクロノは余裕を持っていなかった。悪を罰するというより恐れが先に立った。ついこの間まで死を身近に感じる事すら少なかった一般人のクロノである。それは仕方のないことだったのかもしれない。
「オオオォォォォォォォォォォォ!!!」
ハナエルの体が腰から左肩にかけてぱっくりと割れる。頭にこびりつくような大絶叫を残してハナエルの巨体が揺らぎ、その体が前倒しになった。ハナエルの体は大きな振動を起こしながら地面へと横たわった。
あっけない。やはりステータスを全開にすると巨人族であっても耐え切れないようだ。
しかしクロノは初めて人を斬った。手が震える。胃の中ものが再び込み上げて来そうだった。
「アハハハハハハ!なに?ハナエルの奴一撃でやられてるじゃなぁい。僕やるじゃないの。アハハハハハハ!あらぁ?何を呆けてるのかしらぁ?まさかぁ殺人童貞だったの?アハッ!?図星ぃ?それは悲劇ねぇ!アハハハハハハ!悲劇で喜劇よぉ!なんて素敵かしらぁ!」
ハマリエルの笑い声が耳に突き刺さる。
――くそっ!こいつ仲間を殺されて何とも思わないどころか笑ってやがる!こいつは本物の狂人だ。
「でもぉ、大丈夫よ。僕ぅ。――まだまだ殺せるから」
ハマリエルの妖艶な口が大きく引き上げられる。何のことかと問いかけるまでもなかった。クロノの後ろに倒れていたハナエルの巨体を黒い光が包んでいる。そして見ている間にもその傷口がゴポゴポと泡立ち始め、新しく生まれた細胞が傷を繋げていく。
「さぁ!!何度でも殺し合いなさい!殺し殺されて壊し壊されて!何度でも!何度でも!何度でも!アハハハハハハ!」
笑い声が響く中、ハナエルが立ち上がる。クロノが斬った傷は塞がり、ハナエルの顔に浮かぶのは愉悦。
「アアァァァァァ!!ダノジイィィィィィィィ!!ゴワズノモ、ゴワザレルノモッ!!ナンドデモゴワズ!!ゴワズ!!ゴワズ!!ゴワズ!!ゴワズゥゥゥゥゥ!!」
絶叫を上げたハナエルの体がメキメキと音を立てて変質していく。筋肉はさらに膨れ上がり、弾けては再生し、さらに太くなる。骨格もそれに合わせて大きくなり、骨が肉を突き破っては肉の中に再び飲み込まれ大きくなる。手足につけられた鎖の鉄輪は大きくなる体についていけず弾け飛んだ。頭蓋からは山羊のような巻き角が飛び出し、人のものだった顔が獣のものへと変化していく。
その姿はまるでお伽噺に出て来る悪魔そのものだ。
「アアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
一際大きくハナエルが声を張り上げた時、最早元の巨人族の姿など見る影もなかった。ただ一つ共通点があるならばその大きさ位だ。ただし巨人族でも見上げるほどになったハナエルはもう怪物というほかにそれを形容することが出来なかった。
「オデヲ!オレヲ!コロシタ!ゴロジダ!!コロジタ!!イイゾ!オマエ!イイィィィィ!!」
酷く興奮した様子のハナエルは周りなど見えていないようだった。振るった腕で廃墟の残骸を吹き飛ばし、拳を地面に打ち付ける。地面は大きく揺れ、立っていられない程だ。
クロノはその突然の変貌に驚きを隠せない。
「コロシタ!!ゴロシダ!!コロシタ!!アヒャ!グヒャヒャヒャ!!ダカラ!!ダカラ!!……ツナガッタ!!!ツナゲ!!【因果の呪鎖】!!」
ハナエルが腕を掲げる。クロノの右腕に痛みが走った。右腕を見ると黒い鎖が蛇のように幾重にも巻きついている。その鎖の先には同じく黒い鎖に巻きつかれたハナエルの右腕があった。
「ハジメヨウ!!コワシアイ!!ゴワイアイ!!フヒャ!グヒャヒャ!!」
この時初めてクロノは理解した。
クロノは何も解っていなかったのだと。
本当に恐ろしいのは人を惨たらしく殺すことではない。死を愉悦を以って楽しむことではない。
人間として、いや生物として決して相容れない矛盾を孕んだその本質が成り立っていること自体が恐ろしいのだと。




