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第四話:本編 荒野の黒馬

 西の荒野に、黒い湖があった。


 湖といっても、水はほとんど残っていなかった。岸辺には白く乾いた泥が広がり、割れた地面の隙間に、枯れた草が針のように立っている。遠くには牧場の柵が倒れ、焼けた納屋の骨組みが、夕暮れの中で黒く傾いていた。


 ネムリカは、白い魔導二輪ヨルカに乗って、その土地へ来た。


 ヨルカの光輪が乾いた土を踏むたび、青い円が一瞬だけ地面に浮かび、それから砂の中へ消えていく。


「ここもまだ醒めているな」


 ヨルカが言った。


「終わらない夢を見続けている。お前が切る必要がありそうだ」


 ネムリカは頷いた。


 胸元のアスタが、鞘の奥でかすかに震えた。言葉はない。ただ、冷たい青い光が、刃の内側に灯っている。


 湖のそばには、町があった。

 だが、人はいなかった。


 白い教会。板張りの学校。閉ざされた雑貨店。風で揺れる看板。通りには馬車の轍が残り、玄関先には洗濯物を干すための紐が張られたままだった。


 すべては残っているのに、そこに暮らしていた者だけが、抜き取られたように消えていた。


 ネムリカが学校の前を通ると、どこからか少女たちの声がした。


 アイノ、今日も綺麗ね。

 ねぇ、髪を結わせて。

 先に行っているからね。

 声は明るかった。


 けれど、その明るさは薄い硝子のようで、触れればすぐに割れそうだった。


 ヨルカが前輪を止めた。


「今のは?」


「記憶」


 ネムリカは言った。


 学校の窓に、少女の影が映った。

 長い髪。白い服。湖面のように静かな顔。

 けれど、振り返ったときにはもう消えていた。


 ネムリカは学校の扉を押した。

 中には机が並んでいた。黒板には、途中で止まった文字が白く残っている。棚には教科書があり、窓辺には乾いた花瓶が置かれていた。


 一番後ろの机に、小さな櫛があった。

 銀の飾りがついた櫛だった。そこには黒い髪が一本、絡みついている。


 ヨルカが言った。


「この町の子か」


 ネムリカは櫛を見つめた。

 

 窓の外で、ふいに蹄の音がした。

 振り返ると、通りの向こうに黒い影があった。

 馬の影だった。だが、それはすぐに消えた。


 残ったのは、乾いた土に刻まれた蹄跡だけだった。

 その蹄跡は、町の奥へ続いていた。


     ◇


 ネムリカは蹄跡を追った。

 町の奥には、大きな屋敷があった。


 裕福な家だったのだろう。玄関には白い柱があり、広い窓には破れたカーテンが垂れている。庭には枯れた薔薇が残っていた。花はもうない。棘だけが、夕暮れの光を細く受けていた。


 玄関の扉は開いていた。


 中には、誰かが急いで出ていったような跡があった。倒れた椅子。割れた皿。階段に落ちたリボン。壁には家族の肖像画がかかっていた。


 父らしき男。美しい女。


 そして、そのあいだに立つ少女。


 少女は白い服を着ていた。少し笑っている。だが、その笑みはどこか冷たかった。


 絵の中の女は、長い黒髪を肩に流していた。

 その黒髪だけが、妙に生きているように見えた。


 ネムリカが肖像画を見上げていると、二階から椅子の軋む音がした。


 ぎい。

 ぎい。


 ゆっくり揺れる椅子の音だった。

 ネムリカは階段を上った。


 二階の奥の部屋に、ひとりの女が座っていた。


 長い黒髪の女だった。

 椅子に腰かけたまま、何も見ていない目で湖のほうを見ている。窓は開いていた。風が入るたび、女の髪が水の中に広がる藻のように揺れた。


 ネムリカが近づくと、女の影はゆっくりと首を傾けた。


 その目には、何もなかった。

 悲しみも、怒りも、言葉もない。

 ただ、どこか遠い水底だけを見ている目だった。


「ここには、()()いるな」


 ヨルカが言った。


 ネムリカは首を横に振った。


「いいえ。もっと」


 女の足元に、黒い髪が落ちていた。

 いや、髪ではない。細い縄だった。

 黒い髪のように編まれた、古い縄。


 ネムリカがそれに触れようとしたとき、部屋の奥で少女の声がした。


 お母さまは、きれいだった。

 声はすぐに消えた。


 かわりに、湖の方から重い水音が聞こえた。


 ばしゃり。ばしゃり。

 誰かが、湖へ入っていく音だった。


 ネムリカは窓の外を見た。

 黒い湖面に、長い髪が広がっている。

 それは女の髪にも、馬の鬣にも見えた。


     ◇


 屋敷を出るころ、夕暮れはさらに濃くなっていた。

 蹄跡は屋敷の裏手へ続いていた。


 そこには納屋があった。ただし、もう納屋と言える状態ではない。

 

 焼け落ちた柱と、黒く焦げた梁だけが残っている。

 灰の下には、金具や釘、馬具の壊れた部品が埋まっていた。風が吹くと、焼けた木の匂いが、今も新しいもののように立ちのぼった。


 ヨルカが前輪を止めた。


「ここで誰かが死んようだな」


 ネムリカは頷いた。

 

 灰の中に、懐中時計が落ちていた。

 蓋は焼け焦げていたが、中の針は止まっていた。真夜中に近い時刻だった。


 その横に、男物の手袋が片方だけ残っていた。

 そして、壁だったもののそばに、焼け残った張り紙があった。


 文字のほとんどは読めなかったが、いくつかの言葉だけが黒い煤の間に残っていた。


 黒馬。逃走。見つけた者。牧場主。高値。


 ネムリカは張り紙から手を離した。

 

 その瞬間、背後で馬がいなないた。

 振り向くと、焼けた納屋の入口に一頭の黒い馬が立っていた。


 夜をそのまま毛並みにしたような馬だった。黒い首筋、長い鬣、静かな目。荒野の風が吹くと、その鬣は水のように波打った。


 だが、その背には何かが乗っていた。

 人のように見えた。

 少女のようにも、女のようにも見えた。


 長い黒髪が馬の背から垂れ、少女の輪郭が馬の首の先に鬣から垣間見える。影の中で、ふたつの形は溶け合っていた。


 ヨルカが低く唸った。


「あれは一体、馬か。人か」


 ネムリカは言った。


「ほどけていない」


 黒馬が一歩踏み出した。

 その目は美しく、そして、悍ましかった。

 黒馬は突然、走り出した。


 地面が鳴った。灰が舞い上がり、焼けた梁が崩れた。ネムリカは横へ跳び、ヨルカの光輪が彼女の前に青い円を描いた。黒馬の蹄がその円を踏み砕く。


 鬣の中の少女の輪郭が笑った。

 声は聞こえない。


 けれど、その笑いは分かった。

 

 美しいものが泥に汚れる瞬間を待つ笑いだった。


 黒馬はもう一度、ネムリカへ向かって突進した。


「ネムリカ、乗れ!」


 ヨルカが叫んだ。


 ネムリカはヨルカへ飛び乗った。


 青い光輪が回り、白い魔導二輪は焼けた納屋を抜けて荒野へ走り出した。黒馬がその後を追う。荒野に、青い円弧と黒い蹄跡が並んで刻まれていく。


 走りながら、ネムリカは見た。

 

 黒馬が通った場所に、記憶が落ちていく。

 林檎。縄。白い手。林の奥の一本の木。月明かり。


 焼けた納屋。黒い喪服。湖に広がる長い髪。

 そして、少女の声。


『いい?』


『お前が私のものになることは、お前の一度失墜した美しさを取り戻すことに、不可欠なことなのよ』


 ヨルカが息を呑むように車輪を軋ませた。


「これは、馬を縛った者の記憶か」


 ネムリカは頷いた。


「でも、縛られたのは馬だけじゃない」


     ◇


 ヨルカは荒野を横切り、枯れた林へ入った。

 そこは風が通らない場所だった。


 木々は細く、灰色で、葉をつけていなかった。枝の間には、黒い髪のようなものが絡まっている。地面には林檎の芯がいくつも落ちていた。古いものも、新しいものもある。誰もいないはずの土地で、林檎の甘い匂いだけが湿っていた。


 林の奥に、一本の木があった。

 その幹には、縄の跡が深く残っていた。


 樹皮は削れ、何度も何度も何かが引っ張ったように裂けている。根元には、黒い毛が落ちていた。馬の毛にも、女の髪にも見えた。


 ネムリカはヨルカから降りた。

 

 黒馬は林の外で止まっていた。

 入ってこようとしているが、入流ことはできない。


 見えない縄に引かれているように、首を振り、土を蹴り、何度もいななく。


 黒馬がゆっくりと顔を上げた

 美しい少女の顔だった。


 けれど、その目には何も映っていなかった。湖の底のように暗く、何かを欲しがることでしか自分の形を保てない目だった。


「わたしの」


 黒馬から声がした。


「わたしの、くろうま」


 黒馬の身体が震えた。


 縄の跡が、その首に浮かび上がる。首から下の馬は暴れようとした。だが、少女の腕が首に絡みついて離れない。


 ネムリカはアスタに手をかけた。

 だが、まだ抜かなかった。


 馬の動きには怒りがあった。恐怖もあった。

 それ以上に、荒野へ帰りたいという執念があった。


 しかし少女の目には、違うものがあった。


 美しいものを自分だけのものにしたい欲望。

 美しいものが自分の手の中で膝を折るところを見たい残酷さ。

 そして、それを欲しがらずにはいられなかった小さな痛み。


 ネムリカは、林の木に触れた。

 

 その瞬間、別の記憶が開いた。


 黒い湖に女の長い髪水面に広がり、それを見つけて呼ぶ声。

 返事のない部屋に椅子に座ったまま動かない母。

 美しいと言われるたびに、少しずつ遠くなっていく母。


 そして、湖の向こうに立つ黒馬の夜をまとうような毛並み。その母の髪に似た鬣。


 誰にも触れられず、誰にも壊されず、群れの先頭を歩く美しい獣。


「母」


 ネムリカが言った。

 少女の影が揺れた。


 湖面に、女の黒髪が広がった。屋敷の二階で椅子に座っていた女。かつて美しいと呼ばれ、その美しさの重さに沈んだ女。


 その髪と、黒馬の鬣が重なった。

 少女は、黒馬を見ていたのではない。母の失われた美しさを見ていた。すべて、自分から離れていったものを見ていた。


 みなが褒め、みなが羨み、みなが眺めるものを、自分だけの暗い林に閉じ込めようとした。


 欲しがり、憎み、撫で、縛り、壊して、自分のものにしようとした。


 ヨルカが静かに言った。


「この怪異は、馬の怒りだけじゃないな」


 ネムリカは頷いた。


「欲しがった手」


 黒馬がいなないた。その声は、荒野を渡る風のようだった。

 少女の影が叫んだ。


「行かないで」


 馬の足が止まる。


 縄が見えない木へつながっているように、黒馬の首が引かれた。


「きれいなものは、全部わたしのものなの」


 少女は言った。


「わたしだけが、その栄華も、失墜も、見つめることができるの」


 林の奥で、何かが燃える音がした。

 納屋の火だった。


 それが事故だったのか、誰かが火を放ったのか、記憶は語らなかった。ただ、炎の中で男の声が一度だけ上がり、すぐに途切れた。


 少女はその音を聞いていた。

 黒い服を着て。湖のように静かな顔で。


 ネムリカは、少女を見た。


 罪はそこにあった。だが、罪の形はまだ曖昧だった。火の手のように揺れ、煙のように逃げ、誰にもはっきり掴ませなかった。


 けれど、ひとつだけ確かなものがあった。

 少女の手は、まだ黒馬を放していなかった。


     ◇


 ネムリカはアスタを抜いた。

 青い刃が、夕暮れの中に細い光を落とした。


 それは肉を切る刃ではない。

 罪を消す刃でもない。


 眠れなくなった記憶と、そこにしがみつく痛みとを切り分けるための刃だった。


 ネムリカは、黒馬と少女のあいだへ歩いた。

 黒馬は暴れ少女の顔は鬣に隠れてよく見えない


「いや……取らないで」


 彼女は言った。


「これは、わたしのもの。わたしだけのもの」


 ネムリカは首を横に振った。


「違う」


「一番最初にわたしが見つけたの」


「違う」


「わたしが逃がしたの」


「違う」


「わたしが、世話をしたの」


「違う」


「わたしが――」


 ネムリカは刃を振った。

 アスタが切ったのは、黒馬の身体でも少女の身体でもなかった。


 切れたのは、見えない縄だった。

 黒馬の記憶へ結ばれていた、暗い欲望の黒髪の縄である。


 縄が切れた瞬間、湖の水面が大きく揺れた。


 黒馬がいななく。その頭から少女の顔が落ちた。

 それが地面に落ちることはなかった。


 それは、湖面に落ちた。


 水の中に落ちたのではなく、記憶の中へ落ちたのだ。

 

 ネムリカは、切り分けた記憶の空白に息を吹きかけた。


 青い光が灯る。


 荒野に、夢が置かれた。


 朝の夢だった。月のない、明るい朝。

 広い草原を、マスタングの群れが走っている。

 その先頭に、黒馬がいた。


 誰にも手綱を取られず、誰にも名をつけられず、誰の所有物でもなく、ただ風の中を走っていた。


 黒い鬣は、もう湖に沈んだ髪ではなく、一陣の荒野の風だった。黒馬は一度だけ、ネムリカを振り返った。


 その目には、もう悍ましさはなかった。

 ただ、美しい獣の静かな光があった。


 少女は、草原の端に立っていた。

 白い服を着ていた。美しい顔をしていた。


 だが、その美しさは、誰かに褒められるためのものでも、誰かを壊すためのものでもなかった。朝の光の中で、ただひとりの子どもの顔になっていた。


 彼女のそばに、長い黒髪の女が立っていた。

 女は湖を見ていなかった。黒馬を見ていた。

 そして、少女を見ていた。

 

 少女は、黒馬へ手を伸ばしかけた。

 けれど、指は届かなかった。


 届かないまま、彼女は初めてその手を下ろした。


「きれい」


 少女は言った。


「わたしのものじゃないのに」


 黒馬は走っていった。

 群れの中へ。

 風の中へ。


 少女はそれを見送った。


 泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 ネムリカは彼女のそばに立った。


「眠りにつけそう?」


 少女はしばらく答えなかった。

 やがて、小さく言った。


「どう……かな」


 ネムリカは頷いた。


「それでいい」


 夢の草原に、林檎の木が一本だけ生えた。

 その枝に、小さな白い花が咲き、少女はその木の下に座った。長い黒髪の女も、その隣に腰を下ろした。


 ふたりは何も話さなかった。

 黒馬の蹄の音だけが、遠くで響いていた。

 やがて、その音も眠りの奥へ消えた。


     ◇


 夜が明けた。

 荒野には、もう黒馬の影はなかった。

 湖は浅く、静かだった。


 焼けた納屋も、倒れた柵も、廃れた町も、消えてはいない。屋敷の二階の窓にも、もう女の影は見えなかった。


 湖のそばに、古く黒い縄が落ちていた。

 半ば朽ち、半ば黒い髪のようにほどけた縄だった。

 ネムリカはそれを見下ろした。


「眠りについたようだな」


 ヨルカが言った。

 ネムリカは頷いた。


「馬もか」


「うん」


「娘もか」


 ネムリカは、湖の向こうを見た。

 朝の光の中で、風が草を揺らしていた。


「彼女は、少し」


 ヨルカは黙った。

 やがて、静かに言った。


「犯した罪は眠りにつけるのか」


 ネムリカは答えなかった。


 罪は消えない。


 閉じ込められた馬の苦しみも、壊れた母の影も、焼けた納屋も、少女の手の残酷さも、なかったことにはならない。


 けれど、欲しがる手が永遠に握りしめたままでは、馬も、娘も、母も、湖も、どこへも行けない。


 ネムリカが切ったのは、その手だった。

 奪うために閉じた指を、眠りの中でほどいたのだ。


 どこからか、蹄の音がした。

 遠く、遠く——荒野の奥から。


 けれどその音は、もう誰かを探している音ではなく、逃げている音でもなかった。ただ、走っている音だった。


 ネムリカはヨルカに乗った。


「次はどこだ」


 ヨルカが尋ねた。

 ネムリカは南の空を見た。


 朝焼けの向こうに、硝子の森が見えた。そこでは、眠らない鳥たちが、割れた声で歌い続けている。


「南へ」


 ネムリカは言った。

 ヨルカの光輪が回る。


 白い魔導二輪は、荒野を離れて走り出した。青い円弧が乾いた土の上に残り、やがて風に消えていった。


 ネムリカは振り返らなかった。


 黒い湖のほとりでは、一本の小さな林檎の芽が、朝の光を受けて揺れていた。

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