第三話:回想綺譚 夜の女王の名
前回の物語の前のお話
遠く、遠くの物語。
その王国は、勇者によって長い戦いの末、恐ろしき魔王の率いる魔族の国に勝利を収めることができました。
魔王の首は討ち取られ、大衆の元に晒されました。
敗走した魔族たちは捕虜となり、檻に入れられ、中には処刑されるものもいました。
魔王の臣下たちは、王国の隅にある嘆きの谷の入り口に磔の刑に処され、魔王の晒し首の下に、いくつもの磔が立てられました。
嘆きの谷は誰も寄りつかない、死の蔓延る不気味な場所でした。
王国の人々はこの谷の下は地獄に繋がっていると考えていました。
反乱を恐れた王様は、生き残った魔族を嘆きの谷へ追いやり、魔王の晒し首と臣下の磔から外にはでてはいけないという条約を結ばせました。
魔族の元いた場所は、楽園のような場所でした。
しかし彼らは草花も育たぬ死の土地に縛られることとなったのです。
それから長い年月が経ち、王国から魔族の記憶は薄れつつありました。彼らは痩せた土地に苦しみ力を失い、条約通り魔王の首元からは出ることも考えられませんでした。
ある日、白馬に乗り、白銀の甲冑に身を包んだ騎士が嘆きの谷の麓まで迷ってきてしまいました。
宵闇の薄い月光の下、魔王の頭蓋骨の下からは何本もの磔が立ち並び、冷えた空気が張り詰めていました。
騎士は大きな魔王の頭蓋骨の下に一人の女がいることに気づきました。
女のまるで夜を宝石に変えて身にまとったような美しさに、騎士はたちまち一目惚れしてしまいます。
騎士は、その女を魔族だとは思いませんでした。あまりに気高く、あまりに美しく、あまりに静かだったからです。
彼は、王国から谷へ迷い込み、帰れなくなった貴い身分の女なのだと思いました。
けれど女の正体は、魔王の娘にして、滅びた国の最後の女王なのでした。
女は騎士の胸に光る紋章を見て、彼女は騎士が勇者の末裔であることを見抜いていました。
彼は魔王である父を殺した勇者の末裔で、自らの民を谷へ閉じ込めた王国の騎士でした。
しかし、女王は自分が誰であるかを明かしませんでした。
騎士が、自分の正体を知れば、その瞳に宿った憐れみも優しさも、たちまち恐れか憎しみに変わると思ったからです。
共に王国戻ろうという騎士に、このあたりに住んでいるからと言って、自分の正体をはぐらかしました。
騎士は谷へ通うようになりました。
はじめは、彼女を王国の中心に暮らすように説得するためでした。
けれど夜を重ねるうちに、その理由は変わっていきました。
女は自らの身分を辺境の貴婦人と騙り、滅ぼされた魔族の国のことを語りました。
騎士はそれを、彼女がどこかで聞いた哀れな魔族たちの伝承だと思いました。まさか彼女自身が、その滅びた国の女王であるとは思いもしませんでした。
騎士は女を愛すようになりました。
女王たる女もまた、騎士を憎むことができませんでした。
彼は、夜ごとに水と花の種を運び、彼女の語る物語に耳を傾けました。
けれど、その優しさはいつも女の胸を刺しました。
騎士が愛しているのは、王国から迷い込んだ美しい女でした。
彼が守ろうとしているのは、魔族ではないと思い込んだ女でした。
彼が恐れ、哀れみ、ときに遠ざけている魔族の女王こそ、目の前の女だったのです。
やがて王国は、勇者の末裔が嘆きの谷へ通っていることを知りました。王は、谷に魔王の娘が潜んでいると告げ、その女王を見つけ出して討てと命じました。
騎士は迷いました。谷で出会った女を救うためにも、魔族の女王を見つけなければならないと考えました。
その夜、騎士は女に逃げるよう願いました。王国の兵が来る前に、谷を出るよう願いました。そして自分は、谷に隠れた魔王の娘を探さねばならないのだと告げました。
女はその時ようやく、自分が最後まで彼に見つけてもらえなかったことを知りました。
彼は女を愛していました。
けれど、女王の真実を愛していたのではありませんでした。
彼は彼女を救おうとしていました。
けれど、彼女の名と、血と、背負った滅びを救おうとしていたのではありませんでした。
兵が谷へ押し寄せた夜、女は魔王の頭蓋骨の下から一歩外へ踏み出しました。
魔王の娘が条約を破った瞬間、谷全体が青白く燃えました。女の黒いヴェールは夜空のように広がり、金糸は星屑となってほどけ、宝石は涙のように地へ落ちました。
彼女の足元から、かつて魔族の国に咲いていた白い花が、一斉に芽吹きました。
その光の中で、騎士は初めて真実を知りました。
自分が王国の女だと思って愛した人は、魔王の娘でした。
自分が討つべきだと命じられた女王は、夜ごとに物語を語ってくれた人でした。
自分が救おうとした女を、自分の無知によって、最後までひとりにしていたのです。
朝が来たとき、愛した女——魔族の女王の姿はありませんでした。騎士の腕には黒いヴェールだけが残され、谷には白い花が咲き乱れていました。
騎士は王国へ戻りませんでした。勇者の末裔としての名を捨て、魔王の頭蓋骨の下に座り、女王が語ってくれた物語を語り継ぎました。
王国の歴史書は、彼を魔族に惑わされた裏切り者と記しました。
けれど嘆きの谷の者たちは、彼を夜の女王の最後の聞き手と呼びました。
今も雨の降る夜、嘆きの谷には白い花が咲くといいます。
その花の名はナジュマ。
滅びた国の女王の名であり、違うで愛され、最後まで本当の名では抱きしめられなかった、夜の物語の名なのです。




