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第三話:本編 嘆きの谷

 雨の夜、ネムリカは嘆きの谷へ訪れた。


 白い魔導二輪ヨルカの光輪が、濡れた石の道を静かに削っていた。前と後ろの青い輪が回るたび、雨粒は丸い光となって弾かれ、闇の中へ消えていく。


 谷の入り口には、大きな頭蓋骨があった。


 人のものではない。獣のものでもない。角を持ち、牙を持ち、城門ほどもある白い骨であった。その下には、黒く朽ちた磔がいくつも立っている。木は雨を吸い、釘は錆び、そこに吊るされたものたちは、もう形も名も失っていた。


「ここか」


 ヨルカが言った。


「ここは、もう死んでいるのに、まだ夜が終わっていない」


 ネムリカは頷いた。


 胸元のアスタが、鞘の奥で淡く光った。アスタは喋らない。ただ、眠れない記憶の近くで、青い星のように震える。

 

 魔王の頭蓋骨の下に、ひとりの騎士がいた。


 白銀の甲冑をまとっていたが、その白銀は錆び、苔むし、ところどころに白い花の根が絡みついていた。兜は傍らに置かれ、男の髪は雨に濡れて顔に貼りついている。


 騎士は、黒いヴェールを抱いていた。

 夜を織ったような薄い布だった。金糸が細く走り、小さな宝石の欠片が、雨のたびに星のように光った。


 騎士は顔を上げた。


「ここから先へは行くでない」


 彼は言った。


「この谷には、悪い女王がおるのだ」


 ヨルカの前輪が、かすかに回った。


「悪い女王?」


「魔王の娘だ」


 騎士は、魔王の頭蓋骨を見上げた。


「その女王の首を探している。見つけ出し、王国へ持ち帰らねばぬ」


 ネムリカは騎士を見た。


 その胸には、翼を持つ剣の紋章があった。けれど紋章は、半ば削られていた。敵に傷つけられたのではない。彼自身が、長い時間をかけて削ったもののようだった。


「ずっと?」


 ネムリカが尋ねた。


 騎士は頷いた。


「ずっとだ」


「見つからない?」


「もう、ずっと、見つからぬ……」


 雨が、黒いヴェールを濡らしていた。


 騎士は、それを抱く腕に少しだけ力を込めた。


「されど、探さねばならぬ。あの女王を見つけなければ、私は帰れないのだ……」


「帰りたいの?」


 ヨルカが尋ねた。


 騎士は答えなかった。


 しばらくして、低く言った。


「帰る場所など、もうない」


 そのとき、谷の奥から女の声が聞こえた。

 歌のようでもあり、名を呼ぶ声のようでもあった。

 騎士ははっとして立ち上がった。


「今の声だ」


 黒いヴェールを抱いたまま、彼は雨の中へ踏み出した。


「あの声の先に、女王がおるのだ」


 騎士は谷の奥へ歩いていく。

 ネムリカは黙ってそのあとを追った。


 ◇


 嘆きの谷は、白い花の咲く谷だった。


 草も育たぬ灰色の土から、雨の夜にだけ細い芽が出る。月のように白い花が咲き、夜明け前には消えてしまう。摘もうとすれば、花びらは冷たい光となって指の間でほどけた。


 騎士は、その花を踏まないように歩いていた。

 悪い女王の首を探していると言いながら、彼は慎重に花を避けて歩く。

 そして磔の前を通るたび、目を背け、向き合おうとしない。

 魔王の頭蓋骨の影が遠ざかるたび、何度も振り返った。


「首を探している者の歩き方ではないな」


 ヨルカが小さく言った。

 ネムリカは答えなかった。


 騎士は谷の奥にある古い石段で立ち止まった。

 白い花が一輪だけ大きく咲いていた。

 騎士は、その花の前に膝をついた。


「ここにいたはずなのだ」


 彼は言った。


「私は、ここで彼女を見た……」


「女王を?」


 ヨルカが尋ねた。


 騎士は首を振った。


「違う。いや、違わぬ……私は……」


 言葉がほどけた。


 騎士は、黒いヴェールを見つめる。

 雨に濡れた布の奥で、金糸が星のように瞬いた。


「私は……ある女に会った……」


 ぼんやりと、少しずつ刻むように騎士は言った。


「この谷で。魔王の骨の下で。夜のように美しい女だった。私は、その女を谷から連れ出そうとしたのだ……こんな場所にいるべき人ではないと思った」


 声がかすれた。


「だが、女はいつも笑うだけだった。自分はこのあたりに住んでいるのだと。谷の夜に慣れているのだと」


 谷の雨が少しだけ弱くなった。

 白い花の上に、月明かりに似た光が落ちる。


 その光の中で、一瞬だけ女の姿が見えた。

 黒いヴェール。夜を宝石に変えたような衣に白い指。

 雨の中で静かにこちらを見る瞳。


 騎士は息を呑んだ。


「彼女だ」


 彼は立ち上がろうとした。

 だが、女の影はすぐに消えた。


 残ったのは、白い花と、雨と、錆びた甲冑の音だけだった。


「待ってくれ」


 騎士は言った。


「私はまだ、あなたを……」


 そこで言葉が止まった。


 あなたを——


 そのあとに続くはずの言葉が出てこなかった。

 ネムリカは騎士のそばに立った。


「名は」


 騎士の顔が歪んだ。


「名?」


「その女の、『名』」


 騎士は答えようとした。

 けれど、唇が震えただけだった。


「あなたは知っているはず」


 彼は言った。


「ああ……そうだ……聞いたはずだ。あの夜、彼女はたしかに……」


 雨が強くなった。

 谷の奥から、また女の声がした。

 けれど、その声は名前のところで必ず雨に紛れた。


 騎士は耳を押さえた。


「違う」


 彼は言った。


「私は女王の首を探しておるのだ。悪い女王の首を。王の命で。勇者の家の者として」


 ヨルカが低く言った。


「本当に?」


 騎士は答えなかった。


 ◇


 谷が揺れた。

 雨の向こうに、いくつもの松明が現れた。

 甲冑の音。馬のいななき。剣が鞘から抜かれる音。


 それは今の出来事ではなかった。

 この谷が、雨の夜ごとに繰り返している古い夜だった。

 騎士は立ち尽くした。


 彼の背後に、王国の兵たちの影が並ぶ。彼らは顔を持たない。兜の奥は暗く、ただ剣だけが雨を受けて光っていた。


 誰かの声がした。

 

 魔王の娘を見つけ出せ。悪しき女王の首を持ち帰れ。


 その声を聞いた瞬間、騎士は黒いヴェールを抱きしめた。


「違う」


 彼はつぶやいた。


「私は、彼女を逃がそうとした。兵が来る前に。谷を出ろと。ここにいてはならないと」


 女の影が、魔王の頭蓋骨の下に現れた。

 黒いヴェールが雨の中で揺れている。

 騎士は彼女に向かって叫んだ。


「逃げてくれ。王国の兵が来る。私は、谷に隠れた女王を探さねばならない」


 女の影は、何も言わなかった。ただ、騎士を見ていた。

 その沈黙は、嘆きでも怒りでもなかった。

 それは、最後まで見つけてもらえなかった者の沈黙だった。

 騎士は一歩、女へ近づいた。


「なぜ黙っている」


 女は、魔王の頭蓋骨の下から一歩外へ踏み出した。

 その瞬間、谷が青白く燃えた。

 

 女の黒いヴェールは夜空のように広がり、金糸は星屑となってほどけ、宝石は涙のように地へ落ちた。燃える女の足元から、白い花が一斉に咲き始める。


 騎士は炎の中で膝をついた。

 女の影は、まるで女王のようだった。


 違う——


 それは紛れもなく女王だった。

 騎士はそのことを、今になって思い出しそうになっていた。

 だが、記憶はそこで途切れる。いつもそこで途切れるのだろう。


 彼の中で、王の命令だけが残る。

 悪い女王の首を探せ。見つけ出して討て。

 王国へ持ち帰れ。


 騎士はその命令を、何百年も抱きしめていた。

 まるで、それが彼女を失わずにいるための唯一の形であるかのように。


 ◇


 ネムリカは、胸元のアスタに手をかけた。

 短刀は鞘の中で青く光っていた。


 騎士は雨の中で膝をつき、黒いヴェールを抱いている。彼のまわりでは、同じ夜が繰り返されていた。

 松明。兵。命令。青白い炎。白い花。消えていく女。


 そのたびに、騎士は同じ言葉へ戻る。

()()()()()()()()()()()()』と——


 けれど、彼の腕の中にある黒いヴェールは、首ではなかった。

 討った証でもなかった。

 それは、最後に残された夜の一部だった。


 ネムリカは素早くアスタを抜いた。

 刃は青く、雨を受けても濡れなかった。


 それは肉を切るための刃ではない。罪をなかったことにする刃でもない。


 眠れなくなった記憶と、そこにしがみつく痛みとを切り分けるための刃だった。


 ネムリカは、黒いヴェールへ向けて刃を振った。

 布は切れなかった。

 切れたのは、騎士の中で固く結ばれていた命令だった。


『悪い女王の首を探せ』

 

 その言葉が、青い糸となってほどけていく。

 騎士は目を見開いた。命令の下から、別のものが現れた。


 雨の夜——魔王の頭蓋骨の下。


 女の声。白い花。水を入れた小さな瓶。濡れた外套。

 夜ごとに聞いた物語。


 そして、女が一度だけ告げた名。


 騎士の唇が震えた。雨は降っていた。

 けれど、今度はその名を消さなかった。


「ナジュマ」


 その名が、谷に響いた。

 白い花が一斉に開いた。

 魔王の頭蓋骨が、かすかに震えた。


 磔の列から、長い眠りに入る前の吐息のような音がした。

 騎士は、黒いヴェールを抱いたまま泣いていた。


「私は、首を探していたのではなかった」


 彼は言った。


「私は、ずっとあなたの名を探しておった……」


 谷の奥に、女が立っていた。


 黒いヴェールをまとい、夜を宝石に変えたような衣を着ていた。けれど今の彼女は、囚われた女ではなかった。迷い込んだ貴婦人でもなかった。哀れな伝承の語り手でもなかった。


 滅びた国の最後の女王として、彼女はそこにいた。

 騎士は膝をついた。


「ナジュマ」


 もう一度、彼は呼んだ。


「あなたを、そう呼べばよかった……」


 女王は答えなかった。

 許したのかもしれない。許さなかったのかもしれない。

 そのどちらでもよかった。


 眠りは、必ずしも許しではない。

 名を呼ばれなかったものが、名を呼ばれる。

 それだけで、長い夜が終わることもある。


 女王は静かに手を伸ばした。


 騎士の腕の中の黒いヴェールがほどけ、夜空のように広がる。金糸は星となり、宝石は涙ではなく、小さな灯になった。

 ネムリカは、切り分けた記憶の空白へ息を吹きかけた。


 青い光が谷の底へ落ちていく。

 すると、灰色の土の上に、夢が置かれた。

 黒い塔。月を映す湖。金の灯る窓。夜にだけ咲く白い花。

 物語は、いまだ語りきれぬ——


 ただ、そこが女王の帰るべき夜であることだけが分かった。


 谷の影たちが、ひとり、またひとりと顔を上げた。角を持つ者。翼を持つ者。長い耳を持つ者。尾を持つ者。かつて名を奪われた者たちが、女王のヴェールの下へ歩いていく。


 騎士は、それを見ていた。

 最後の聞き手として。そして今度こそ、正しい聞き手として。


「私も行けるだろうか。私は彼女の名を覚え続けられるだろうか」


 騎士が尋ねた。

 ネムリカは少しだけ考えた。


「夢で」


 騎士は笑った。


 長い年月、雨と罪に濡れていた者の、疲れた笑みだった。


「ああ……それでいい。それならば、もう忘れることもあるまい……」


 彼は目を閉じた。


 錆びた甲冑は静かに崩れ、白い花びらとなって地面に積もった。削られた紋章も、兜も、剣も、すべて朝を待つ土の上へほどけていく。


 最後に残ったのは、若い騎士の影だった。

 白銀の甲冑をまとい、まだ紋章を削っていないころの姿である。


 けれど彼は、もう王国へは帰らなかった。

 女王の名を胸に、夜の国の夢へ歩いていった。


 ◇


 夜が明けた。

 嘆きの谷には、まだ魔王の頭蓋骨があった。磔も立っていた。灰色の土も、冷たい石も、何ひとつ消えてはいなかった。


 けれど、谷を覆っていた青い霧は薄くなっていた。

 魔王の頭蓋骨の下には、白い花が一輪だけ咲いていた。


 ネムリカは、その花を見下ろした。

 花びらは朝日を受けても消えなかった。今だけは、本物の花のようにそこにあった。


「眠ったな」


 ヨルカが言った。

 ネムリカは頷いた。


「首ではなく、名だったか」


 ヨルカは谷の奥を見た。

 

「ずいぶん長く、間違えたものを探していたんだな」


 ネムリカは答えなかった。

 胸元のアスタは、もう光っていなかった。ただ、鞘の奥に、いま切った記憶の冷たさが少しだけ残っていた。


「谷も眠ったのか」


 ヨルカが尋ねた。

 ネムリカは、磔の列と魔王の頭蓋骨を見た。


 戦は消えない。

 憎しみも、罪も、失われた国も、見つけてもらえなかった女王の夜も、なかったことにはならない。


 それでも、谷はもう同じ夜を繰り返してはいなかった。


「少し」


 ネムリカは言った。


「少しだけ、眠りについた」


 風が吹いた。


 白い花びらが一枚、ネムリカの前を横切った。

 その花びらの中に、女王の声が混じっていた気がした。

 けれど、それはもう、誰かに名を呼んでほしい声ではなかった。


 名を取り戻したものが、眠りの底へ降りていくときの、静かな吐息だった。

 ネムリカはヨルカに乗った。


「次はどこへ行く」


 ヨルカが尋ねた。

 ネムリカは南の空を見た。


 雲の切れ間に、ひとつの塔が見えた。塔は逆さまに立ち、その窓から眠らない灯がこぼれている。そこにもまた、目を開けたまま終わってしまったものがいるのだろう。


「西へ」


 ネムリカは言った。ヨルカの光輪が回る。


 白い魔導二輪は、嘆きの谷を離れ、朝の道を走り出した。雨上がりの地面に青い円弧が残り、それはしばらく白い花のあいだに漂っていた。


 ネムリカは振り返らなかった。

 谷はもう、彼女を呼んでいなかった。


 ただ、魔王の頭蓋骨の下で、白い花が一輪、朝の光の中に咲いていた。


 その花の名はナジュマ。


 悪い女王の首として探され、愛した女の名として思い出され、ようやく本当の名で眠った夜の花の名であった。

 

次回。回想綺譚にてこの物語の前に何があったのか、語られる—

『 回想綺譚 夜の女王の名』も合わせてお読みください。

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