第四話:回想奇譚 くろうま
ある大陸の国の荒野には、たくさんの馬がいる土地があった。
そこに、アイノという美しい娘が暮らしていた。
家は裕福で、父は土地の有力者、母はかつて町でいちばん美しい女と呼ばれていた。アイノ自身もまた、誰もが振り返るほど美しかった。
湖のほとりを歩けば、学校へ向かう娘たちが彼女に声をかける。
「今日も綺麗ね、アイノ」
「髪を結わせて、アイノ」
「これから補習なの。先に行っているからね」
アイノは微笑んで彼女たちを見送る。
だが、その微笑みの奥には冷たい退屈があった。
美しいと言われること。
大事にされること。
羨ましがられること。
それらはアイノにとって、もう喜びではなかった。
彼女は美しいものが好きだった。
けれど本当は、美しものが壊れていくところを見たいと思っていた。
美しいものが泥に汚れる。
誇らしいものが膝を折る。
誰にも触れられないものが、自分の手の中で逃げ場を失う。
その瞬間にだけ、アイノは心が満たされる気がした。
ある日、湖の向こうに一頭の黒い馬が立っていた。
深い夜をそのまま毛並みにしたような馬だった。
黒い首筋、長い鬣、静かな目。
その馬は湖畔の風の中に立ち、じっとアイノを見ていた。
目が合った——
けれどその時、アイノはまだ、黒馬を特別には思わなかった。
ただ、湖面に映る黒い影が、母の髪に似ていると思っただけだった。
数日後の夜、アイノは再び黒馬を見る。
月の明るい晩だった。
草原の向こうから、何頭ものマスタングが現れた。
その先頭を歩いていたのが、あの黒馬だった。
黒馬は群れを従えていた。
誰に教えられたわけでもないのに、その足運びはあまりに優雅だった。
野生でありながら気品があり、獣でありながら王のようだった。
アイノは息を潜める。
馬たちの嘶きが、人々の声に聞こえた。
――美人なのね。
――お母さんに似ているのね。
――すぐに素敵な人が見つかるよ。
アイノは唇を噛む。
黒馬が月明かりの下を歩く。湖面にその姿が映る。
群れの馬たちもそばにいるはずなのに、アイノの目には黒馬だけしか映らなかった。
その瞬間から、アイノは黒馬を忘れられなくなる。
やがて町に噂が広がった。有名な牧場主が、荒野のマスタングの群れを捕まえたという。そしてあの黒馬も、その中にいるという。
黒馬はすでに土地の人々の間でも評判になっていた。
「もうすでにうちの牧場の焼印はつけた」
「あれほど見事な馬はいない」
「調教すれば高く売れる」
「町の祭りに出せば人が集まる」
その話を聞いたとき、アイノの胸に湧いたのは悲しみではなく、怒りだった。
なぜ、あの馬を誰もが見るのか。
なぜ、あの馬の美しさを皆が口にするのか。
なぜ、あの馬が自分以外のものになるのか。
その夜、黒馬は厩舎から逃げた。
逃がしたのはアイノだった。
けれどそれは、黒馬を自由にするためではなかった。
アイノは黒馬を森の奥へ導き、誰も来ない林の一本の木に繋いだ。
黒馬は暴れ、土を蹴り、首を振り、縄を引いた。
月の光を受けて、黒い毛並みが波のように揺れた。
アイノはその姿を見つめていた。
恐怖よりも、歓喜に近い感情が彼女の顔に浮かんでいた。
彼女は林檎を差し出す。
「いい?」
アイノは、慈愛に満ちたような声で言う。
「お前が私のものになることは、お前の一度失墜した美しさを取り戻すことに、不可欠なことなのよ」
黒馬は林檎を齧る。暗闇に、硬い音だけが響いた。
アイノの心には、母の記憶があった。
母は美しかった。誰もが母を褒めた。
父も、町の人々も、見知らぬ旅人までも、母の美しさについて語った。
だが母は長年の心身の不調からか、あるいはこの土地の気に当てられたのか、ある日湖へ入った。
長い黒髪が湖面に広がっていた。
母は死ななかった。けれどそれ以来、部屋に閉じこもり、昼も夜もぼんやりと椅子に座っているだけになった。
美しいものは、壊れる。
壊れた美しいものは、誰にも見られなくなる。
アイノはそのことを知っていた。
そして、その光景に傷つきながら、どこかで魅入られてもいた。
黒馬の鬣は、湖に広がった母の黒髪に似ていた。
だからアイノは黒馬を欲しがった。
だからアイノは黒馬を憎んだ。
アイノは毎日、林へ通うようになる。
黒馬に水を与え、林檎を与え、毛を撫でる。だが決して縄をほどかなかった。
黒馬は次第に痩せていく。それでも、その目だけは野生の光を失わなかった。アイノはそれが許せなかった。
ある日、父が死んだ。焼死だった。
その、夜のうちに納屋が燃えた。父は火だるまになりながら納屋から飛び出し、いつかの母の入った湖の中で死んだ。
それが事故だったのか、誰かが火を放ったのか、誰にもわからなかった。
ただ、その頃から町の人々はアイノを見る目を変えはじめていた。
「最近、あの子は林に入り浸っているらしい」
「母親を放って、何をしているのか」
「あの黒馬が逃げた夜、アイノを見た者がいるそうだ」
「父親の火事も、本当に事故なのか」
葬式の日、アイノは黒い服を着ていた。
湖のように静かな顔で、棺を見下ろしていた。
その日の夕方を最後に、アイノの姿を見る者はいなくなった。
数日後、黒馬を捜索していた牧場の者たちは草原の向こうに、黒い馬を見た。
その黒馬は確かに牧場が捕らえた馬そのものだったはずだった。けれどそれは、普通の馬の姿とはどこか違っていた。
黒馬の背から、長い黒髪のようなものが垂れていた。
人の横顔に見えるものが、馬の鬣から覗く。
馬と人の境目が、影の中で溶け合っていた。
牧場の者たちは声を出すことができなかった。
黒馬は一度だけこちらを見た。
その目は、美しく、悍ましかった。
そして黒い影は、荒野の奥へ消えていった。
それ以来、その土地では夜になると黒馬の蹄の音が聞こえるという。
美しいものを欲しがった娘が、黒馬を自分のものにしたのか。
それとも黒馬に呑まれたのか。
誰にもわからない。
ただ、湖のそばを通る者は今も見ることがある。
月明かりの下、黒い馬の影が立っている。
その背には、少女のような、母のような、長い髪の影が揺れている。




