第二話:本編 古戦場の島
異界の赤い海の上に、ひとつの島があった。
そこには浜辺も、漁村も、鳥の巣もなかった。黒い岩と、赤く錆びた鉄と、砕けた砲台と、風に削られた石碑だけがあった。
島の中央には低い丘があり、その丘の上には、翼を折ったような形の塔が立っていた。塔のてっぺんには鐘が吊られていたが、鳴ることはなかった。
風が吹くたび、島の下から別の音が聞こえた。
それは海鳴りではなかった。
島の下には、海ではなく暗渠があった。巨大な水路が、島の腹を貫いているのである。
石と鉄で組まれたその暗い水路には、水ではなく、古い夜が流れていた。
夜の中には星が浮かび、星のあいだには、折れた翼や、砕けた車輪や、魚の骨のような鉄の胴体が沈んでいた。
それらは、かつて空を飛んだものだった。
島を遠くから見た者は、それを龍の巣と呼んだ。近づいた者の多くは帰らなかったが帰った者は皆、同じことを言った。
島には鋼鉄の龍がいる。
その龍は、鳥のような翼を持ち、蛇のように長い尾を持ち、鱗は銃弾を弾く鉄でできている。爪は刃のように鋭く、喉から吐く火は、油と硝煙の匂いがする。
そしてその龍は、眠らない。
長い長い年月、眠ることを忘れたまま、古戦場の島の上で空を睨んでいる。
◇
ネムリカは、夜明け前の海を渡って来た。
白い魔導二輪ヨルカは、前後の青い光輪で波の上を走っていた。車輪は水を裂くのではなく、光の輪で水面を押すように進んでいく。
走ったあとには、しばらく青い円が浮かび、それから静かに消えた。
「見えてきたぞ、ネムリカ」
ヨルカが言った。
濃い霧の向こうに、黒い島があった。
島の上には砕けた砲台が並び、銃座のようなものが口を開けていた。
だが、それらは人が作ったものの形を保っていなかった。
長い年月のうちに、砲身は骨のように白み、台座は牙のように歪み、島そのものが巨大な獣の死骸のように見えていた。
「古い戦の匂いがする」
ヨルカが言った。
「血だけではない。油、煙、火薬、焼けた海。それから……帰らなかったものの匂いだ」
ネムリカは頷いた。
胸元のアスタが、鞘の奥で淡く光った。
アスタは喋らない。ただ、眠れない記憶の近くで、青い星のように震える。
ネムリカは島へ降り立った。
足元の岩は黒く、ところどころに赤い錆が流れていた。砂ではなく、鉄粉のような細かいものが積もっている。踏むと、きしり、と音がした。
島に生き物の気配はなかった。
鳥もいない。虫もいない。
草さえ、岩の裂け目にわずかに乾いた葉を残すだけだった。
それでも、島は空を見上げていた。
折れた砲台も、裂けた塔も、倒れた石碑も、みな同じ方角を向いていた。まるで、今もなお遠い敵影を探しつづけているようだった。
ネムリカは丘へ向かった。
その途中、風に混じって、微かな音がした。
ざざ。ざざざ。
無線の雑音のような音だった。
声もあった。だが、言葉にはならなかった。
高度。
敵艦。
帰投。
いや、帰投ではない——
……お母さん……ありがとうございました
それらは、はっきり聞こうとするとすぐに崩れ、ただの風になった。
「ここは戦場だった場所じゃないな」
ヨルカが言った。
「戦場を、終われなかった場所だ」
ネムリカは答えなかった。丘の上で、何かが動いた。
巨大な影が翼を広げた。最初は岩かと思えたそれは、ゆっくりと首をもたげ、金属の鱗を鳴らした。
翼は膜ではなく、鋼板を重ねたような形をしていて、その翼に剥げた赤いペンキの跡が見える。そこには穴が空き、裂け、焦げた跡があった。
尾の先には折れた舵のようなものがついており、四つの爪は、弾丸を引き延ばしたように鋭かった。
龍だった。
だが、ネムリカはそれを見た瞬間、ほんの少し目を細めた。
龍は彼女たちを見下ろした。その目は、ガラスのようだった。
光を映すが、濡れてはいない。まぶたはあるのに、閉じることを忘れているようだった。
「また来たか」
龍の声は低く、錆びた鉄扉が開くようだった。
「願いを叶えに来たか。命を救いたいか。恋人を取り戻したいか。不老不死が欲しいか。それとも、この鱗か」
ヨルカが前輪を光らせた。
「こちらは鱗には興味がない」
「ならば何をしに来た」
龍の目が、ネムリカを捉えた。
ネムリカは短く言った。
「あなたを、この場所を眠らせにきた」
島の空気が止まった。
次の瞬間、龍が吠えた。
それは獣の咆哮ではなかった。無線の雑音、爆発音、金属のきしみ、遠くで誰かが叫ぶ声、それらを一つに押し固めたような音だった。島の砲台が震え、丘の上の鐘が一度だけ鳴った。
龍が飛んだ。
翼が空を切ると、青黒い火が尾を引いた。ネムリカは横へ跳び、ヨルカの光輪が彼女の前に青い円を描いた。龍の爪がその円を引き裂き、岩が砕けた。
「眠りを嫌う者は多いが、これはまた激しいな」
ヨルカが唸った。ネムリカは答えなかった。
龍は空中で身をひるがえし、再び降ってきた。口の奥に火が灯る。油の匂いがした。火は赤ではなく、白く、まぶしかった。
「ネムリカ」
ヨルカが叫んだ。
ネムリカはアスタに手をかける。しかし、まだ刃は抜かなかった。
彼女は龍を見ていた。翼を。爪を。尾を。鱗の継ぎ目を。胸の奥で規則正しく震える機械のような音を。
それは鼓動ではなかった。発動機の音だった。
「龍じゃない」
ネムリカが言った。
ヨルカの前輪が、ぴたりと止まった。
「何だと?」
龍が吠えた。
「俺は龍だ。ここで何人も殺した。俺を殺せば願いが叶うと、人間どもは勝手に信じた。俺はそれを笑った。近づくものを焼き、逃げるものを追った。だから俺は龍だ」
ネムリカは首を横に振った。
「違う」
龍の目が大きく開いた。怒りが、島の上を走った。
「黙れ」
龍が三度目に襲いかかったとき、島の北側で、地面が低く鳴った。
ネムリカはそちらを見た。
黒い岩の下に、アーチ型の口があった。半ば崩れ、半ば海藻のような黒いものに覆われていたが、それは洞窟ではなかった。人の手で造られた暗渠だった。
そこから吹き上がった風は、海の匂いをしていなかった。
油と錆と、古い布と、火薬の匂いがした。
ネムリカはその暗渠へ走った。
「そっちは危ないぞ」
ヨルカが叫ぶ。
「分かってる」
ネムリカは短く答えた。
龍が追ってくる。翼が島の岩を削り、爪が火花を散らした。ネムリカは崩れた砲台の影を抜け、北の暗渠へ滑り込んだ。
中は広かった。
島の下に、もうひとつの空があった。
暗渠の天井には星が浮かんでいた。水路の底には黒い水が浅く流れ、その中に、無数の兵器が沈んでいた。銃、砲弾、曲がった刀、裂けた操縦桿、焼けた座席、破れた軍帽。
そして、その奥に、たくさんの戦闘機が横たわっていた。
一機ではなかった。
二機でもなかった。
暗渠の奥へ、翼を折られた機体が幾重にも重なっていた。胴体には焦げた穴があり、翼には黒い影が絡みついていた。あるものは機首を失い、あるものは尾翼だけを水面から出し、あるものはまだ飛ぼうとしているように斜めに傾いていた。
それらは墓標だった。
いや、墓標になれなかったものだった。
龍が暗渠の入口に降り立った。
その巨大な身体が、狭い水路をふさいだ。目は怒りで燃えていたが、その光の奥に、ほんの一瞬だけ、怯えが混じった。
「見るな」
龍が言った。
「そこを見るな」
ネムリカは暗渠の中に沈む機体を見つめた。
ヨルカが、ゆっくりと彼女の横へ来た。
「これは……僚機か」
ネムリカは頷いた。
暗渠の中の戦闘機は、ただの残骸ではなかった。ひとつひとつが名を持っていた。ひとつひとつが声を持っていた。
笑い声。短い返事。
無線の中で途切れた呼吸。
出撃前に交わされた、何でもない言葉。
それらは水底に沈んだまま、まだ眠っていなかった。
龍の散っていった友の翼だった。
「あなたは龍じゃない」
ネムリカは言った。
龍の喉が鳴った。
「違う」
「鉄の翼」
「違う」
「人間」
「違う!」
龍が吠えた。
暗渠の天井から星が落ちた。水路の底に沈んだ零式戦闘機たちが、かすかに震えた。まるで、長い眠りの中で、誰かが自分たちの名を呼んだように。
龍が火を吐いた。
ネムリカは避けきれなかった。
白い火が彼女の外套の端を焼き、金の紋様が一瞬強く光った。ヨルカが前輪を大きく回し、青い光輪で火を押し返す。
「ネムリカ、急げ」
ヨルカが言った。
「あれは怒っているんじゃない。思い出すのを怖がっている」
ネムリカはアスタを抜いた。刃は細く、青かった。
暗渠の星々を映したその刃には、血の光はなかった。ただ、眠れない記憶へ差し込む細い夜明けのような光があった。
龍が突進してくる。
その身体は、もはや獣のものではなかった。翼の下に機銃の影が見え、腹には燃料槽のような膨らみがあり、胸の奥では、古い発動機が喘いでいた。鱗だと思っていたものは装甲板で、牙だと思っていたものは砕けた風防の破片であった。
ネムリカは逃げなかった。
ヨルカが横から走り、青い光輪で龍の視界を遮った。
「こっちだ、鋼鉄の龍」
龍の頭が一瞬、ヨルカを追った。
その隙に、ネムリカは龍の胸元へ踏み込んだ。
アスタを振る。
それは龍の肉を切らなかった。
鉄も、鱗も、骨も切らなかった。
刃が切ったのは、龍という形に貼りついた長い長い記憶だった。
かつて自分が人間だったことを忘れるために積み上げた嘘。
友と同じ死へ行けなかったことへの呪い。
生き残った罪。
いつまでも終わらない出撃命令。
それらが、アスタの青い刃に触れた瞬間、薄い布のように裂けた。
龍が叫んだ。
暗渠の水が逆巻き、戦闘機たちの影が揺れた。
裂け目の奥から、いくつもの記憶がこぼれ落ちた。
それは、はっきりした過去ではなかった。
断片だった。
白い襟。磨かれた靴。
机の上に置かれた読みかけの本。
開け放たれた窓。紙に落ちる桜の影。
誰かが笑っている。
誰かが帽子を取り上げて逃げる。
誰かが、戦が終わったら、と言う。
その先の言葉は、風に消えて聞こえなかった。
次に見えたのは、雲だった。海の上の雲。
震える操縦桿。かすれる無線。
返事のない名前。
白く光る海面。
近づいてくる巨大な影。そして、まぶしいほどの光。
死が来るはずだった。けれど、死は来なかった。
龍は暗渠の中で膝をついた。
巨大な身体が崩れかけていた。鱗の間から、鉄ではないものが見えた。若い兵隊の手。制服の袖。血の通った首筋。けれど、それらはすぐまた鉄に覆われようとした。
「やめろ」
龍が言った。
「思い出させるな」
ネムリカは刃を下ろした。
「眠りなさい」
「俺は龍だ」
「違う」
「俺は人を焼いた。殺した。笑った。願いを持って来た者を、くだらないと笑った」
ネムリカは黙っていた。
ヨルカが静かに言った。
「それでも、おまえが最初から龍だったことにはならない」
龍は顔を上げた。
その目の中で、ガラスの光が割れかけていた。
「俺は、友と死にたかった」
ネムリカは頷いた。
「俺だけが残った」
ネムリカはまた頷いた。
「俺は、人間だったのか」
ネムリカは言った。
「ええ」
その一言で、龍の喉が震えた。
暗渠の奥で、戦闘機たちが静かに揺れていた。水面に映る機体の影は、いつしか若者たちの姿へ変わり始めていた。肩を組んでいる者。帽子を押さえて笑う者。整備兵に叱られている者。手紙を書いている者。
それらは明確な姿ではなかった。けれど、確かに人だった。
ネムリカは、アスタの刃をもう一度振った。今度は、空白を作るためだった。
龍の中に長く居座っていた戦場の記憶が、少しずつ切り分けられていく。怒号。爆音。炎。命令。敵影。落ちていく友。自分だけが落ちきれなかった瞬間。
それらは消えなかった。ただ、青年の心から少し離され、眠りへ渡るための隙間が作られていった。
ネムリカは、その空白に夢を置いた。
春の昼の夢であった。桜が満開に咲いている。
暗渠の天井から、花びらが降り始めた。
水ではなく、星でもなく、淡い桜だった。花びらは黒い水の上に落ち、沈まずに漂った。
やがて暗渠の床は、どこかの校庭のようになった。砕けた兵器のあいだに桜並木が伸び、折れた翼の上に春の光が降った。
そこには、若者たちがいた。顔ははっきりせず、名も聞こえない。けれど、彼らは笑っていた。
まだ誰も死んでいない日のように、まだ誰も空の果てへ行かなくてよかった午後のように。
龍の身体が小さくなっていった。
鋼鉄の翼は肩から剥がれ、鱗は薄い鉄片となって落ちた。爪は指に戻り、尾は煙のように消えた。胸の奥で鳴っていた発動機の音は、だんだん小さくなっていった。
そこに立っていたのは、若い男だった。
軍服姿の青年だった。
年は、まだ二十にも満たないように見えた。手には操縦桿ではなく、一冊の本を持っていた。表紙は擦り切れていたが、彼はそれを大切そうに抱えていた。
青年は、自分の手を見て指を曲げた。爪ではなく、人の手だった。
「俺は」
彼は言った。
「龍じゃなかった」
ネムリカは頷いた。
「俺は……」
その先の名は、聞こえなかった。言ったのかもしれない。
けれど、暗渠に降る桜がその名を包み、誰の耳にも届かないまま、眠りの底へ運んでいった。
青年は桜の向こうを見た。そこには、友人たちの影が立っていた。彼らは責めなかった。
なぜ帰ってこなかったとも言わなかった。
ただ、そこにいた。出撃前の午後のように。
まだ、すべてが取り返しのつく時間であったかのように。
青年の肩が震えた。
「眠っていいのか」
ネムリカは言った。
「ええ」
「友のところへ行けるのか」
ネムリカは少し考えた。
彼女は嘘をつかなかった。
「夢で」
青年は小さく笑った。
それは、長いあいだ龍の喉に閉じ込められていた、人間の笑いだった。
「それは、いい夢だな……」
桜が強く降った。
暗渠に沈んでいた戦闘機たちが、一機ずつ光になっていった。翼は燃えず、砕けず、ただ春の光の中でほどけていった。機体から若者たちの影が抜け出し、桜並木の向こうへ歩いていく。
青年も、そのあとを追った。
一歩進むたび、彼の肩から戦場の匂いが落ちていった。油の匂い。火薬の匂い。焼けた海の匂い。命令の声。恐怖。怒り。笑っていなければ壊れてしまいそうだった長い年月。
それらはすべて、桜の下へ沈んでいった。
青年は最後に振り返った。何かを言おうとした。
けれど、言葉にはならなかった。
ネムリカは首を横に振った。
礼はいらない。そう言ったわけではない。
ただ、彼女は救ったのではなかった。
裁いたのでもなかった。
目を開けたまま終わってしまった者に、まぶたを返しただけだった。
青年は桜並木の向こうへ消えた。
◇
島に朝が来た。
古戦場の島は、まだそこにあった。砲台も、折れた塔も、黒い岩も、赤く錆びた鉄も消えてはいなかった。暗渠もまた、島の下に口を開けていた。
けれど、音が変わっていた。
ごう、と唸っていた暗い水路は、今では静かに水を流していた。そこに沈んでいた兵器の数は、ずいぶん少なくなっていた。残っているものも、もう怒ってはいなかった。ただ古いものとして、静かに眠っていた。
丘の上の鐘が、風に揺れ、一度だけ、澄んだ音が鳴った。
ネムリカは島の北に立っていた。ヨルカはその横で、前輪をゆっくり回していた。
「眠ったな」
ヨルカが言った。ネムリカは頷いた。
「龍ではなかった」
ヨルカは暗渠の奥を見た。
「龍という形にならなければ、ここで残れなかったのだろうな。人間のままなら、あまりにも苦しかった」
ネムリカは答えなかった。
胸元のアスタは、もう光っていなかった。けれど、鞘の奥に残ったわずかな温かさが、今しがた切った記憶の重さを伝えていた。
どこからか、桜の花びらが一枚だけ飛んできた。
この島には桜の木などない。
花びらはネムリカの肩に触れ、すぐに光となって消えた。
ネムリカはヨルカに乗った。
「次はどこだ」
ヨルカが尋ねた。
ネムリカは海の向こうを見た。
朝焼けの彼方に、白い塔が逆さまに立っていた。その根元には、雲の橋がかかっている。そこにもまた、眠れない記憶があるのだろう。
「行く」
ネムリカは言った。
ヨルカの光輪が回った。
白い魔導二輪は、古戦場の島を離れ、朝の海を走り出した。青い円弧が水面に残り、やがて波に溶けていった。
ネムリカは振り返らなかった。
島はもう、龍の巣ではなかった。
そこは、戦場から帰れなかった青年たちが、ようやく出撃を終えた場所だった。
そして暗渠の奥では、誰も乗っていない鉄の翼が、桜の夢の中で静かに眠っていた。
次回。回想綺譚にてこの物語の前に何があったのか、語られる—
『 回想綺譚 鋼鉄の龍』も合わせてお読みください。




