研究開発一班
亜獣人界・育みの里。ここには全世界で唯一、機械の研究及び開発が行われている施設であ
る「研究開発局」が存在し、その者たちを「科学者」と呼ぶ。
科学者の数は全世界合わせても百人程しかいない。機械の開発は厳しく管理されており、生
活して行く上で必要が無いと判断された物は様々な協議に掛けられ、許しを得る事が出来なけ
れば開発に当たる事は出来ない。中でも汎用性の高い機械はより厳しく協議され、開発するた
めには「誰にでも使う事が出来てはならない」という最低条件が存在する。開発するのであれ
ば、「より使い難く」しなければ世に出す事は許されない。
これほど機械に対して厳しいのは、「第三次象徴大戦」の影響である。それ以来、たくさん
居た科学者の数を減らし、一定の数より増やさないように管理するようになった。その一方で、
機械の整備や修理をする「整備士」や、扱うのが難しく設定された物を訓練する事によって使
う事が許された専門職「機械行使士」といった職業が誕生し、科学者ではなくなった者たちの
中でも機械に携わっていたいと望むものや、新しく科学者になりたくてもなれなかった者たち
はその職に就く事となった。
そんな厳しい「科学者」の世界の中で、最も古くから存在する少数の科学者たちの集まり、
「研究開発一班」は、世界の科学者たちのトップに君臨する者たちである。
「お前は何度言ったら分かるんだよ。利便性の高い機械は人と世界を駄目にすると、前にも言
ったはずだが?」
「で、でも・・・利便性の高い物があれば、日常生活における様々な行動の効率がよくなるし・・・」
狸種の女性はその反論に大きな溜め息を漏らす。
「はあ・・・利便性を追求するだけの科学者はクズだ!世界には必要ない!出て行け!」
怒鳴られた科学者の女性は逃げるように走り去っていった。その一部始終を傍で見ていた、
四人いる「研究開発一班」の科学者の一人である熊種の男は、いつもの事であるかのように笑
って見ていた。
「いや~言いますね、ラグラ先輩。今にも泣き出しそうな顔してましたよ?」
「いいんだよ。科学者の何たるかを理解して無い、出来ない奴は害になるだけだからな」
「科学者の出番が無い。それが一番幸せ」
同じく一班の科学者であるビン底眼鏡を掛けた、猫種の小柄な女性は無表情で言い放つ。
「エルビナの言う通りだ。機械なんてものは無いに越した事は無い」
「そうっすよねー」
その話をしている中、エルビナは何かを取り出し、二人に見せる。
「お?なんだ?新しい眼鏡か?」
エルビナは静かに頷く。そして、ビン底眼鏡で実際には見えないが、眼の色が変わったかの
ようにペラペラと喋り出す。
「名付けて『ケモミミ専用メガネ』。耳が頭頂部に付いていてメガネを掛けたくても掛けられ
ないと、お悩みの方でもこれで解決。一度掛ければしっかりフィットして、自分で外そうとし
なければ幾ら動いても外れる事も、ずれる事もありません」
「でも締め付けが痛いんでしょう?」
「ご心配無かれ。非常に柔らかくて肌触りの良い軽い素材を使用する事で、付けていても付け
ている事を忘れてしまうほど軽くて気になりません」
「廃棄方法は?」
「土のある所にそのまま捨てて頂ければ、勝手に土に還ります」
「成程、アタシから言う事は何も無い」
ラグラが口にした「言う事は何も無い」は、謂わば認められたと言う事である。ラグラに認
められた後にも協議には掛けられるのだが、ラグラの眼が一番厳しいため、実質ラグラにさえ
認めてもらうことが出来れば、ほぼ間違いなく開発が認められる事になる。
「ありがとう。でも、もう少し見た目や、色に拘ってみたい」
先程の熱が冷めたのか、急に大人しくなる。ふと、いい匂いがしてくる。
「皆、テーブル、片付けて」
いい匂いに反応したエルビナが慌てるように催促する。それに従って皆して紙やら筆記用具
やら何やらでぐちゃぐちゃになっているテーブルを統率の取れた動きであっという間に退け、
拭いて綺麗にする。テーブルが整って直ぐに、ドアを開けて一人の給仕服の上に白衣を着た女
性が、台車に料理を載せて運んでくる。
「おまたせしました、お昼ご飯にしましょう」
待ってましたと言わんばかりに皆で手早く料理を並べる。
「では、いただきます」
エルビナの合図で一斉に食べ始める。
「うまい!幸せとはこういう事を言うんだろうなあ~・・・」
「同感」
「・・・・・・」
モリトとエルビナの二人は美味しそうにガツガツ食べている一方、ラグラだけは何も言わず、
だが食べる手を止めずに食べ続けている。作った本人はそんな様子をまるで子供たちを見守る
母親のような優しい笑顔で見つめている。
そんな至福の一時と言ってもよい時間を邪魔する物が現れる。
「おじゃましまーす」
へらへらしながら軽い口調で入ってきたのは、「育みの象徴」であるインフォルマの使い、
サラードだった。その突然の来客を、エルビナとモリトは嫌そうに見つめる。
「うわっ、本当に邪魔そうだな・・・つーか、滅茶苦茶うまそうだな・・・じゅるり」
「何か、用があるのか?」
ラグラが威圧感たっぷりな口調で本題を切り出させようとする。その意図を汲み取ったサラ
ードは渋々話を始める。
「・・・『旧研究室』・・・そこの整理を頼みたいだけだよ。はい、話し終わり!所長さん、お昼ご
飯ご馳走になってもいいっすかねー?いやー、お腹空いちゃって空いちゃって」
「はい、構いませんよ。直ぐに用意してきますね」
所長であるその給仕者は他の者たちとは違い、嫌な顔一つせず、むしろ笑顔で応じる。所長
が部屋から出て行くと、嫌そうな目がより一層強くなった気がする。
「お前らなあ・・・いいじゃないか!俺だって食いたいんだよ、伝説の人の料理をさあ。だいたい、
俺たち兄妹だろ!?そんな嫌な顔すんなよ~」
「そんな事はいい・・・それより、どうして今『あの部屋』を整理しなければならない」
その質問にサラードは少し困った素振りをする。が、直ぐに意を決して事情を伝える。
「・・・まだ、動いているんだ・・・」
伝えるにはその言葉だけで十分だった。その言葉を聞いた一班の三人は驚きを隠せない様だ
った。そして直ぐにラグラが怒りを露にする。
「貴様ら!あれからまだ使ってるんじゃないだろうな!」
「十分有り得る話」
「待て!あれは使えばすげえ大きな音を出すんだぞ!使ったら直ぐ分かるはずだろ?」
だが、疑いの眼は晴れない。
「サラードさん、あなたの能力って『音』に関する能力でしたよね?」
「あ、ああそうだ。だが、俺の能力は『音』を離れた人物に直接送るもので、消したりとかは
出来ないぞ!エルビナは知ってるだろ?だいたい、あの装置の爆音を直接人に送ったら、送ら
れた人はどうなる事か・・・」
「エルビナ、そうなのか?」
エルビナは眼鏡を中指でクイッと持ち上げ、掛け直す。
「うん。でも、飽く迄もその力はある、というだけ。実際は人前で使っていないだけで、消す
力も持っている可能性は十分にある」
「うう、信用ねえなあ、俺・・・」
そんな不穏な空気の中、サラードの分のお昼ご飯が運ばれてくる。
「おまたせしました。どうぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
「ん?何かありました?」
流石に空気がピリピリしている事に気が付き、笑顔が消える。
「いや、何でもない。食べ終わったら『旧研究室』に行くぞ」
『旧研究室』は許可が無い限り立ち入り禁止となっている。ここには、かつて亜獣人界を大
きく変えた科学者の私物や機械が存在している。それらは、その科学者本人の意向によって、
「負の遺産」として世には広められず、秘密裏に管理されている。
「・・・ここに来るのも久しぶりだな・・・・・・」
ラグラだけではなく、一班の者たち皆にとっても感慨深い場所であった。
「ラグラ、お前が開けるといい」
サラードは研究室の鍵をラグラに渡す。
「・・・・・・」
鍵を見つめ、何かを思い返すかのように目を閉じる。
「開けるぞ」
ガチャリ。鍵が開けられたその音は、皆の心の奥深くまで響いた。
数え切れないほどの紙が机だけでなく、地面にも散らばり、主のいなくなったその日その時
のままの様だった。
扉を開けたはいいが、誰も中に入って行こうとはしない。この場所は、皆にとってそれほど
重要な場所なのである。ラグラはぽんと所長の女性に方を優しく叩かれ、我に返ったかのよう
に中に足を踏み入れる。
いつも座っていたであろう椅子やその目の前の机には、内臓を患っていた事もあり、その人
の吐血した後がまだ残っている。血の痕は所々に残っていて、病を押してまでどれだけ研究を
続けていたかを窺わせる。
問題はこの部屋の奥にある部屋だ。サラードの話では未だに動き続けていると言うのだ。そ
れを早く止めなければならないのだ、「第三次象徴大戦」時に造られた、人々を救った「最悪」
の機械を。
その部屋には確かに、その機械が完全なまま残され、未だに光が灯っていた。
「これ・・・生きてるな・・・」
「未だ御健在」
「これが、そうなんですね・・・」
「・・・・・・さっさと止めるぞ・・・」
ラグラはその機械を止めようと、たくさんのボタンの様な凹凸が並んでいる所に手を掛ける。
「・・・本当に、止めちまうんだな?」
その問いかけにラグラの手がピクリと反応して止まるが、また直ぐに動き出し、カタカタと
凹凸を叩き始める。
「当たり前だ。『あの人』はこれが在り続ける事を望みはしない。だろう?エルビナ」
「うん。あの人は機械の蔓延する世界が大嫌いだったから」
当時を知るエルビナは『あの人』の事を懐かしみながら答える。
「『あの人』・・・私たち『強化獣人』の生みの親にして、この機械『強化獣人製造機』を開発し
た科学者見習い、『ラステル』」
「つまり、僕たちの母親、或いは創造主様になるのですね」
「そうか、この場で会った事があるのは、俺とエルビナだけか」
「どんな方だったのですか?」
ラステルは若くして亡くなっており、会った事のある強化獣人の方が少ないのだ。
「人と機械が大嫌いで、機械が蔓延した世界を目の敵にしてたな~」
「生き長らえるつもりも無く、血を吐くほどの病気でも、医者に掛かろうとしなかった」
「・・・何だか、ラグラ様に少し似ている感じでしょうか?」
すると突然、ビービービーと警告音が鳴り響いた。
「ラグラ様!?」
「これは・・・冗談だろ!?」
「どうしたんですか!?」
「アタシは停止させる手順を間違いなく完了したはずだ!」
普段、何事にも冷静なラグラに焦りの色が伺えた。どれ程の事が起こったのかと皆、不安に
なる。
「な、何だ!?おい、ラグラ!説明してくれよ!」
「生まれる・・・」
「『生まれる』って・・・まさか!」
「新しい『強化獣人』?」
「ですが、生み出すための『モノ』は投入されて・・・」
その機械「強化獣人製造機」は、これまでとは異なり、大きな音を立てる事無はく、次第に
光を強めていく。
「まさか・・・材料となる『人の死体』も無しに・・・!」
光が次第に治まって行くと、機械の一部である透明な大きい容器の中に、人の形をした影が
見えてくる。その影を見た所長は、はっと気が付く。
「エルビナさん!」
「!!」
その呼びかけで、エルビナも事態を飲み込み、対処に当たる。
「え?何ですか?所長、どうしたんですか!?」
「エルビナ?ちょっ・・・押すな!」
そのまま男二人を部屋の外に放り出し、鍵を掛ける。
「ちょっと、おい!空けろ!入れてくれてもいいじゃないか!」
「サラードさん、今ここで入ってしまったら・・・多分これからずっと、白い目で見られ続ける事
になるかもしれませんよ・・・?」
「そ、それでも!それでも・・・男には曲げられない、強い想いが・・・」
「お前ら、もしこの部屋に入ったら、社会的に殺した上で、無意識に『死にたい』と連呼する
ようになる程過酷な実験動物として、死なない程度に扱うからな。覚悟が決まったら入って来
てもいいぞ」
サラードとモリトは互いを見合って、目と目で決意を確かめ合い、頷く。
「「よし、帰ろう!」」
光は完全に治まり、容器の一部が開く。製造された新たな生命体がゆっくりと開いていく容
器にもたれかかりながら外に出て来る。
生み出された裸の女性に丈が長い白衣でとりあえず覆う。
「エルビナ、状態のチェックだ」
「はい」
「お前は適当に服を見繕って持って来い」
「了解しました」
三人が急いで行動する中、「強化獣人製造機」は光を失い、静かに停止した。
新たな「強化獣人」が誕生したという話は直ぐに「育みの象徴」インフォルマにも伝えられ、
飛んでやって来た。
「へぇ、この子が・・・犬種のようね」
身体に異常は見られず、今は眠っている女性は、一班の研究室のベッドに運び込まれていた。
男共の入室は許可されているが、接近は許されていない。
「くそう・・・遠くからじゃあ、顔も良く見えないじゃないか」
「まずいですよ!サラードさん、実験体にされてしまいますって」
新たな生命の護り手として連れて来られている、同じ強化獣人のムムが立ちはだかっている。
常に目を閉じているムムだからこそ、何処に意識を向けているのか分からず、隙を伺う事が出
来ない。
「後十センチ。それでアナタ方の運命が決まります」
「う・・・そ、そこまでしなくてもいいだろ!」
「あなたもね」
要らぬ睨み合いが続く中、インフォルマが大きな声を上げる。
「決めた!!『ワンコ』!」
「は?」
何のことだかさっぱり分からず、皆が皆気の抜けた声が出る。
「なーまーえ!ワンコちゃん!うん、かわいい!」
「はあ~・・・・・・」
そのネーミングセンスに皆頭を抱える。インフォルマのネーミングセンスは強化獣人たちの
中で有名であり、こうして強化獣人が生まれた際に名前を付け、何人もの被害者を生んでいる
のである。質が悪い事に、インフォルマはこの「亜獣人界」で二番目に偉い人物なのである。
そして、今日もまた、一人。しかも、よりにもよって、新たに生まれるのは最後になるだろう
彼女が名付けられてしまうとは・・・皆、申し訳ない気持ちに苛まれた。
「それで、話では素材無しに生み出されたという事だけど、その辺りの見解は?」
「分からん。素材が無かった事もそうだが、生み出される際に出るはずの騒音も全く無かった
んだ。今回の事はイレギュラー過ぎる」
「そう・・・。では、引き続き調査をお願い」
「無論だ」
「さて!名前も決まった事だし・・・しばらく、この子の事は一班に任せてもいい?出来れば、一
般常識も教えてあげて欲しいんだけど、頼める?」
「はい、お任せください!」
「それじゃサラード、帰りましょう」
「え?ん~・・・分かりました・・・」
「待て」
インフォルマは立ち去ろうとするが、それをラグラに呼び止められる。しかも、その声はど
こか怒っているようにも聞こえる。
「まだ何か?」
「何体目だ」
「・・・何の事?」
「惚けるな!こいつは何体目の強化獣人かと聞いてるんだ!ちなみに、アタシが知っているの
は五十代までだが?さあ、答えてみろ」
「・・・・・・百体目」
「はぁ・・・あの装置の最上限まで使ってやがったのか・・・」
ラグラは頭を抱えてはいるが、驚いている様子はない。
「怒ってる?」
「怒らせてる自覚はあるのか・・・まあいい、それでどうやって気付かれずに遂行したんだ?」
「『東の大妖怪』の力を借りたの」
「他種族を関わらせたのか・・・そこまでして使わなければならない理由でもあったのか?」
インフォルマは悪びれる様子も無く首を横に振る。
「・・・・・・もういい、帰れ。今更やっちまったもんをとやかく言ってもしょうがないしな・・・」
「それじゃあ」
インフォルマは謝る事無く部屋を出て行った。
「ラグラ様、大丈夫ですか?」
「ああ、頭痛え・・・インフォルマめ・・・・・・」
真っ暗な天井はその暗さ故、元の色が何色だか判別できない。視界の端に別の色が認識出来、
そちらに首を回す。そこには「明るい」「暖かい」と思わせる色があった。その傍らには生き
物・・・優しそうな女性がいる。その女性は視線を感じたのか、こちらに気付き、一瞬だけ目を丸
くし、柔らかな笑顔になった。
「おはようございます。初めまして。そして・・・ようこそ、この世界へ!」
「・・・おはよう・・・ございます。初めまして・・・・・・」
言葉を返すと、その女性はこちらに歩み寄ってくる。
「お腹、空いてませんか?・・・何か身体に取り入れたいという感情はありますか?」
自分の身体に意識を集中してみる。・・・確かに、何か足りないという感覚がある。これが「お
腹が空く」という事なのだろうか。
「はい。お腹・・・空いてませ・・・空いて・・・・・・空いてます?」
「はい。それであってますよ。直ぐにご用意致しますね」
女性は踵を返すと、そのまま視界から居なくなってしまった。
生き物の気配が無くなった空間を今一度見渡してみる。様々な物体が規則正しく並べられて
おり、「美しい」という言葉が脳裏に浮かぶ。
「美しい・・・美しいます・・・ません・・・・・・」
何か納得いかず、首を傾げる。
「ある・・・ない・・・美しい・・・・・・美しくある、美しくない・・・!」
今度は納得が行き、大きく頷く。そして、更に何か言葉が浮かびそうな物が無いか見渡し、
浮かぶ言葉の肯定と否定を口にしてみる。すると、急に嗅覚に身体を奥底から揺さ振る様な刺
激を感じる。その刺激に身体全体が高揚していると感じる。
「お待たせしました、こちらのテーブルにどうぞ」
入ってきた先程の女性は、何かをベッドから少し離れたテーブルという場所の上に置いた。
ベッドから足を降ろし、地面に着けると、「歩行する」という本能が表に出て来るのを感じた。
その本能に身を任せて身体を動かしてみる。
まずは、自身の両方の足の裏に体重の全てを預けてゆっくりとバランスを取り、安定させる。
ぐらりと大きく傾き、本能的に手をベッドに伸ばし、バランスを整える。今の経験を脳に刻み、
再び試みる。今度は腰を落とす事で、バランスを上手く取る事が出来た。「前進する」ために
足を前に出さなければならない。だが、足を上げてしまっては、片足に全ての体重を預けてし
まう事になり、危険だ。それを避けるため、足を上げずに地面を摺りながら前に出す。その状
態で一旦バランスを取り、再び足を揃えてバランスを取る。ゆっくりと繰り返す事で、ようや
くテーブルの橋に手が届いた。
女性が指差す所には、座るのに丁度良い高さの物があった。促されるままにテーブルを伝っ
て、それに座ると、女性は向かい合うように座る。そして、不規則な形の物を持ってこちらに
見せてくる。自分の手元にも同じ形の物がある事に気が付く。もう一度女性の差し出した手を
見て大よそ理解する。「このように持つ」事を教えてくれているのだろう。見よう見真似で持
ってみる。
次に女性は器に溜まっている液体にその物をくぐらせ、口に運んだ。自分も同じようにくぐ
らせ、口に入れる。
「!?」
その瞬間、口の中が痺れ、思わず目を見開いた。そのまま飲み込むと、体中に沁みこんで行
く感覚が全身に行き渡る。そして自然と出た言葉は、
「美味しい」
だった。続けて次々に口に運んで行く。と、その横の別の物体に目が留まる。楕円形をして
いて、指で突くとふわふわしていて柔らかいと感じる。教えを請うように目の前の女性に顔を
向けると、女性はそれを素手で持ち、引き千切った。そして小さい方の欠片を口に入れた。だ
が、今度はそれではなく、よく見ると頬や顎が幾度と無く上下しているのが見て取れた。何を
しているのだろうか。
その様子を見ながら、自分も同じように千切り、とりあえず口に入れて見る。口内の物体は
大きく、先程の液体のように喉を通せそうに無い。顎を上下させる行為にヒントがあると思い、
考える。実際に顎を上下させてみていると、意味を理解できた。口の中の「歯」を使い、大き
い物を小さく砕いていき、唾液で滑らかにすることでようやく飲み込む事が出来た。
しばらくすると、液体も、柔らかい物体も無くなってしまう。女性を見る。
「おかわり、欲しい、ですか?」
口に物を入れる動作をしながらゆっくり言葉を話す。「おかわり」もう一度食べる事だろう
か、「欲しい」・・・「ですか」の疑問形と「おかわり」の意味から、「必要」という意味だと予
想できる。
「もう一度食べる事、必要・・・欲しい、です」
「はい、分かりました!」
朝になり、一班の面々は起きて研究室に入る。と、そこで「ワンコ」と名付けられた新たな
強化獣人が所長に言葉を教えてもらっていた。
「お、おはようございます、所長。それと・・・」
モリトはあまり良いとは言えない「ワンコ」という名前を呼んでもいいものかと悩んでいる
と、その子の方から挨拶を返してきた。
「おはようございます。初めまして、お腹、空いてませんか?」
まるで所長の様な挨拶に驚く。
「え、あ、はい・・・はじめまして・・・」
「はじめまして、私もお願いします」
「・・・・・・」
モリトとエルビナは返事を返し、ラグラは軽く手を挙げた。
「・・・三人分・・・分かりました。グル様、三人前です」
「はい。用意をしに行きましょう」
所長グルはそう言うと、台所へ歩いていく。その後をワンコは付いて行く。
「あの子・・・一般的な教養が無いと感じる」
「だな。だが、最初がゼロからだったとするならば・・・」
「昨日の深夜に目を覚ましたとしても、会話も歩行も出来るみたいですし、かなり学習能力が
高そうですね」
ワンコの動きは目を見張るものだった。粗は目立つにしろ、まるでグルの様な振る舞いで、
初対面の相手に対しても動じる事無く会話もこなしている。だが、その表情は希薄であり、喜
怒哀楽の表現は、その声の抑揚からも判断する事は難しかった。
たどたどしかった一連の動きも、一日、また一日と確実に滑らかになって行き、七日も経た
ない内に、日常生活を会話も含めて一人で問題なくこなせるようになっていた。教え方がいい
というのもあるだろうが、それよりもやはり、ワンコ自身の学習能力がずば抜けているという
事は間違いなかった。その一方で、ワンコはほとんどグルから離れる事が無かった。その事に
一班の面々も少し心配になっていた。
「このままでいいんですかね・・・所長は楽しそうだし、見てると微笑ましくなりますけど」
「所長、お母さんみたい」
ワンコは今日もグルの手伝いをしている。洗濯や掃除、料理を盛り付けたり並べたり。あち
こちに動き回るグルの後ろを付いていきながら、家事仕事を学んでいる。
「あの学習能力の高さだ、科学者としての知識を教えれば、科学者にすることも難しくないだ
ろうな」
「それでは、科学者に?」
「だがな、はっきり言って今、この世界に新しい科学者は必要ない」
「彼女の能力を必要としている分野があると?」
「ああ、それにしたって、一番いいのはあいつ自身が自らやりたいと思うことをやる事だ。そ
のためにはまず、世界を知らなければならない。世界にどんなものがあるのか、どういう世界
なのか、あいつ自身の目で見て考える必要がある。その上で科学者になりたいと言うのであれ
ば、心置きなく教えてやれる」
「まずは、所長に話をしないと、ですね」
昼食を終えて、片付けに向かおうとするグルを呼び止める。
「お話ですか?分かりました。ワンコさん」
「はい。それでは、自分は皿洗いを済ませておきます」
ワンコは一人で片付けを始める。それを横目にグルを外に連れて行く。
「お話とは、何でしょうか?」
「グル。アタシはあいつ、ワンコをどこかに研修に行かせるべきだと判断した。分かるか?」
「・・・・・・はい。ワンコさんにはもっと、この広い世界を観て欲しいと・・・そういう想いも確かに
あります・・・ですが・・・・・・」
グルは何かを言おうとして、飲み込んだ。
「所長・・・」
「我侭・・・言っていいんだぞ」
グルは目を閉じていた。初めて目を覚ましてからまだ十日も経っていない。だが、それでも
グルにとっては新鮮で楽しい日々であり、情を抱くには十分すぎる時間だった。我侭を言って
しまいたい気持ちは勿論ある。でも、それはきっとワンコのためにはならないだろう。これま
でワンコと共に過ごして、ワンコには学習能力だけではなく、誰に対しても物怖じせず話をす
ることが出来る適応力があると思われる。恐らく、別の場所に行っても、その適応力で上手く
やっていけるだろう・・・・・・。
「・・・・・・了解しました。ワンコさんには私の方からお話をさせて下さい」
「・・・好きにするといい」
「ありがとうございます・・・」
グルは中に戻っていった。
「所長・・・寂しそう」
「付いててあげた方がいいんじゃないですか?」
「・・・・・・エルビナ、モリト、話がある」
グルが戻ると、ワンコは丁寧な手付きで慎重に食器を洗っている最中だった。グルが戻って
きている事に気が付いているのかいないのか、ワンコはこちらを振り返らない。グルは意を決
して話しかける。
「ワンコさん・・・・・・お話が・・・」
「はい、中断致します」
ワンコは洗いかけの皿をそっと置くと、グルの方に身体全体を向ける。ワンコの目は真っ直
ぐにグルを映している。胸が締め付けられる想いに苛まれながらも、それを必死で振り払い、
声を捻り出す。
「ワンコさん、この世界は・・・とても広いです。いろんな種族が居て、いろんな種があって、い
ろんな性格をした人々が、いろんな場所でいろんな事をしながら生活しています」
「・・・・・・」
「・・・・・・世界を・・・そんな世界を私は・・・・・・!」
胸が詰まり、声ではなく、涙が出そうになってしまう。まだ堪えなくては。あと、あと少し
だけ・・・。
「あなたに、世界を観て欲しい・・・です・・・・・・」
「・・・・・・グル様・・・了解しました」
言葉を受けたワンコの表情に大きな変化は見られなかった。ワンコは話が終わったと判断し
たのか、皿洗いを再開した。
「グル、ワンコの研修先の事なんだが」
しかし、グルは上の空で話し掛けられた事に気が付いていない様子だ。ラグラが肩を叩いて
ようやく気が付いた。
「大丈夫か?」
「あ・・・すいません・・・もう、決めた事なのに・・・いつまでもうじうじして、申し訳ありません」
「構わん。で、研修先なんだが、『ハイラント邸』に頼もうと思う」
「ハイラント邸・・・」
「ああ、エルビナとモリトと話し合って、一番いいと思った場所だ」
三人がここに決めたのには理由があった。ワンコが幾ら学習能力が高いとはいえ、いきなり
知らない人ばかりの知らない土地に行かせては、流石に不安が大きいだろうという事で、真っ
先に上がった場所がハイラント邸だった。なぜなら、ハイラント邸にはグルの妹であるガルが
居るからだ。そこならば、ワンコの不安も恐らく軽減されるだろう。
しかし、ハイラント邸に妹のガルが居る事は、グルは知らない。ガルはかつて存在した列車
の大事故で両親と共に死んでしまったと思っている。実際は、その事故で生存しているのだが、
事故の衝撃で家族の記憶を失っていたため、グルに対して生存を隠されていたのだ。そして現
在もガルの記憶は戻っていない。
グルにとって、ハイラント邸は名前は聞いたことがある程度でしかなかった。だが、ラグラ
たちが考えて決めてくれた場所であるため、異議や疑問は無かった。
当日、ワンコは何着かの着替えだけを持ち、研修に向かおうとしていた。
「ワンコ、元気で」
「ワンコちゃん、気楽にな」
「お前なら大丈夫だろうさ」
「ワンコさん・・・・・・」
ワンコがグルの直ぐ傍に歩み寄ってくる。
「ずっと、迷っておりました。グル様のこと・・・『母様』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「は、ははさま!?」
「だめ、でしょうか・・・?」
「え、と、その・・・恥ずかしいですが・・・」
グルは顔を赤らめながら認める。すると、ワンコが突然グルを抱きしめる。
「ありがとうございます・・・行って参ります、母様」
「はい。行ってらっしゃい・・・ワンコ・・・」
グルは笑顔で送り出す。そしてワンコもまた、笑顔で返した。




