終局
たった一夜にして、営んでいた日々の日常も、建ち並んでいた建物も、村や街も、そこで育まれ新たに生まれようとしていた文化も、そして住まう人々も全てが消え失せた国がある。
永きを生き、同胞達にも重きを置かれる力を持った、名の知れた守護聖獣に愛され、周辺諸国に大きな影響力を誇る国ではあった。その為に、たった一夜にして国土全体が灰燼と帰したという報は、瞬く間に周辺諸国、果てには地の果ての国にまで轟くこととなった。
だが、その国と深く接してきた周辺諸国ではその報に驚くもののほとんどは日々の暮らしに勤しむ民達が多く、それも「まぁ、大変」と次の話題が出てしまえば流れてしまう程度のものだった。周辺諸国の王侯貴族が驚くという事は無く、むしろ「ようやくか」と嘲笑を浮かべるものも多かった。
灰燼と帰した後となっては、名前を口にするのは不吉と、誰に命じられるわけでもなく名を封じられたその国は、それだけの事を仕出かしたのだと己が立場の意味と守護聖獣の偉大さを血に刻む王侯貴族たちは考えた。
良識と学識のある立場ある者ならば眉を顰め苦言を呈す、この周辺諸国には存在しなかった"常識"を生み出そうとし、国王自らがそれに傾倒しただけに飽き足らず、それを国として押し付けようとしていた。
その結果、多くの民達が灰燼を帰す以前から、他国へと着の身着のままに逃れる自体を産んでいた。
何より、王侯貴族たちが許せなかったのは、自国の守護聖獣を蔑ろにしたこと。稀有なる存在を踏みつけにしたこと。そして、その果てに他国の守護聖獣達を巻き込み、周辺諸国全てに苦難の年月をもたらしたことだった。
しかも、その国の王侯貴族、特に王家はそれを理解してもいなかった。
あまつさえ、守護聖獣達に見守られ、健やかに成長していた幼き聖獣の姫を蔑ろに踏みつけて、身勝手な行いを声高に叫んで死を与えるという、最悪の所業。
姫の祖母たる聖獣が怒り狂わぬ訳がない。
それによって与えられた罰さえも『祟り姫』という名を持って穢し、同胞とその孫姫の為にと手を貸し鎮めた守護聖獣達の慈悲をその国は当然の助けと笑ったのだ。
許しを与えることのなく、敵を何処までも追い詰め丸呑みにしてしまう蛇の性。
家族を慈しみ、それを害する敵を決して許すことのない狼の性。
人として、聖獣として、そのどちらに進むかもわからぬ可能性と共に、守護聖獣達に成長を見守られていた姫は、そんな二つの性を受け継いでいた。
蛇に、狼。
どちらも敵に容赦などしはしない存在の怒りを買った国が、その怒りを笑い捨てる国がそう永く続く訳がないと皆が知っていた。
知らないのは、現実を見ようとはしない者達だけ。
駆け巡った報せは、当然のことと受け止められた。
国土全てが灰燼に帰したと言われた国だが、その国の人間にさえも存在をあまり知られていない辺境の山奥にポツリと存在している小さな村だけ何事もなく、自分達が属している国が滅んだ事さえも知らぬような様子を伺わせて残っていた。
それを他国の王侯貴族は知ってはいない。知っているのは、良かった良かったと優しい目を向けている守護聖獣達だけだった。
その小さな村は、新たに同胞へと加わった幼い守護聖獣を抱き、その加護を受けている。
スンスン
鼻を鳴らすその姿は、まるで好奇心旺盛な仔犬を思わせる。
「何か匂いがするの?」
近くに居た子供が一人、彼女と同じように匂いを嗅いでみようと鼻に意識を集めてみるが、感じ取れるのは何時もと変わらない森の木々の匂いや、家々から漏れる生活の匂いだえ。他に、彼女が興味をそそらるような匂いは何も感じることは出来なかった。
「雨の匂いがするの。もうすぐ雨が降ってくるから、洗濯物はしまった方がいいよ。」
晴れ渡る青空。雨雲どころか、真っ白な雲ひとつない空を見上げた彼女は、そう断言するのだ。
「そっか。皆に知らせてくるね!ありがとう、サキちゃん!!」
子供は空を見上げたままの彼女-サキの言葉に何の疑いも持つことなく、駆け足で村の家々を回っていく。走り抜ける途中で出会う人、出会う人に「雨が降るってサキちゃんが!」と伝えていた。
「あら、大変だ!」
洗濯日和と、村のあちらこちらで大量に干されていた洗濯物が次々と消えていく。
村の誰一人、サキの言葉を疑うことはない。
もう、サキは血の気の通わぬ恐ろしい姿をした『祟り姫』ではない。
零れ落ちそうだった首はちゃんと繋がっているし、その顔色はほのかに赤い、温かみをちゃんと感じられるものとなっている。
あの日、祖父だと判明した隣国の守護聖獣シグルスからの誘いを、サキは迷うことなく断った。
『ううん。私、行かない。』
首を横に振って、はっきりと声にして断った事を、シグルスはあまり驚いてはいなかった。
『そう。うん、分かったよ。』
寂しげに顔を歪めはしたものの、サキを無理矢理連れ去ろうとすることも、説得しようとすることもなく、シグルスはサキの言葉を認めてくれた。
真剣な面持ちでの申し出だっただけに、呆気ない終わりに唖然とする。
それは、サキ以外も同じだった。
喉を鳴らして様子を見守っていた村人達も呆然としてシグルスを凝視している。
シグルスの申し出の中、サキの冷たい体に手を回して抱き締めかけていたデュークも、その腕から決して力を抜くことはしなかったが、眉を顰めながらシグルスを注視する。
『サキは、アデライトにそっくりだからね。あの子、サキの母親もそうだった。俺がどれだけ、何を言おうが最後には自分の好きな道を選んでしまう。縛り付けたって無駄だと分かっていて、それを実行する勇気は俺には無いよ。これから永い年月を共に歩める可愛い孫娘に嫌われたくはないよ。』
その言葉は、サキの心を揺さぶった。
自分でも自覚し始めていた。
人ではなくなったサキは、これからどうなるのだろうか。
死んで『祟り姫』になった。
でも、皆がそんなサキを受け入れ、愛してくれた。
自分を殺した国を、王家を、彼女を憎悪する『祟り姫』には今、村の外がどんな状態にあるのかを感じていた。目にしているわけでも、耳にしたわけでもなく、感じるのだ。喜びが魂の奥底から湧き起こってくる。肌がざわざわと振るえ、胸の奥深くから煮えたぎるような熱が生まれていた。油断したら、涙も流してしまいそうだった。
『祟り姫』から憎悪が消える。でも、人に戻れるわけではない。だって、人としてのサキは、あの日断頭台に消えたのだから。
じゃあ、サキは何になる?
サキは、聖獣になるしかない。
祖母のように蛇なのか、祖父のように狼なのか。
それはまだ、分からない。
でも、聖獣となるのならば、叶えたい願い一つ、その事実を受け止めた瞬間に当たり前のように生まれてきた。
この村を護る守護聖獣がいい。
厳しくも優しい村人達を。
明るく元気な子供達を。
何より、冷たく不気味でしかないと自分自身が恐れているサキに、抱き締めて温かさを分け与え続けてくれているデュークを、守りたいのだと思うのだ。
この世界は厳しい。
守護聖獣がいない土地で人が生きるのは、とてつもない困難を必要とすると言われている。
村を有する国は消えた。
最後の一線で、国を完全に見捨てることが出来ずにいた守護聖獣アデライトの加護は完全に失われた。
今はまだ、村の周囲一帯に何の異変も見られない。
でも、これからはどうなるのか分からない。
どうにか出来るのは、サキだけなのだ。
それを、サキは宣言した。
迷いのない、晴れやかな笑顔で。
そして、シグルスに守護聖獣となるにはどうしたらいいのかを尋ねた。
聖獣としての自分を自覚し始めたばかりのサキには、分からないことばかり。
『色々と、教えて欲しい。駄目、おじいちゃん。』
孫娘にそんな風に可愛らしく言われてしまえば、断れる祖父は居ない。
『でも、本当に?人と共にある時間はとても喜びと驚きに満ちて有意義なものではあるけれど、それと同じ程辛く苦しいものでもあるんだよ?』
人は短い時間を生きる。
人が何世代もの営みを続ける間、生き続けることが出来る聖獣に比べたら、それは本当に僅かな時間だ。
サキが今、村の人達を愛しているから護りたいと願ったとしても、その人々はすぐに目の前から去っていくことになるだろう。
その別れに、サキは耐えられるのか。
『残ることを許すと言ったわりに、随分と揺さぶるものですね。』
シグルスの忠告に耳を傾け、その事を考えただけでも胸が苦しくなる。肩を震わせたサキを、デュークは自分の胸に引き寄せた。
彼の顔を見上げると、忌々しげにシグルスを睨みつけていた。
『これくらいは、許してくれないかな?可愛い孫娘だ。何より、俺達聖獣は数が少ない。幼い同胞に優しく助言せずにはいられないところがある。』
『大丈夫。私なら、大丈夫だよ。出来るよ。』
シグルスの気遣いが嬉しい。
そして、肩に感じるデュークの温かみが嬉しい。
シグルスの忠告を聞いて、サキの事に気遣わしげな目を向けてくれる村人達の存在が嬉しい。
だから、サキは大丈夫だと言い切れる。
例え、別れが来ようとも、この村を守っていけると誓える。
『私は、お母さんやおばあちゃんに似ているって、おじいちゃんは言ったよね。だったら、皆が居なくなった後も、この村には皆に何処か似ている子たちが生まれてくる。それを見つけていったら、きっと寂しいなんて思わない。だから、私はそんな未来の為にも、この村を護る守護聖獣になりたい。』
村人達全員の耳に、その言葉は大きく響くようにして届いた。
サキの胸元が白く光り輝き始めた。
その光は、見ている全員の目を射抜くように輝くと、すぐに消えた。
『何?今の…?』
『少し変則的ではあるけど、契約が成されたということだよ。おめでとう、サキ。』
あまり実感が湧かない、とサキは首を傾げる。
村人達も、目を凝らしてサキを凝視するが、変化は見出せなかった。
『サキが、完全に聖獣と成りきったら自然と意識出来ると思うよ。』
また来るよ。シグルスはそう言って村を後にしていった。
永らく国を留守にしていたのだ。守護聖獣として、大切な用事だとはいえ、これ以上王家や民達を待たせるわけには行かないという事情がある。
無理をしないで、とサキは手を振って見送った。
『サキ。』
『何?』
夜も深け、夜を好む鳥の声さえも静まった星空の下。とても真剣なデュークの声が、シグルスを見送ったサキを意識の全てを奪った。
周囲には誰もいない。
村から少し離れた、見晴らしの良い崖の上。流石に人前で本性には戻れないと言ったシグルスの為に、サキと特別に許されたデュークの二人だけが彼が帰っていくのを見送った。
『まだ先のことだけど、僕はサキを置いて死ぬ。それは、彼の言う通りだよ。』
なんで、そんな事を言うの?
覚悟をしているとはいえ、突きつけられて悲しくないとはいう訳ではない。サキの目に、涙が滲む。
『ごめん、泣かないで。』
サキと向き合ったデュークが、その涙を指で拭うが、後から後から滲む涙が治まることはなかった。
『サキ、僕はサキに宝を残したいと思ったんだ。サキが悲しまないように、寂しくないように。特別な宝を。』
許してくれないかな?
涙が滲む目を、きょとんと見開き、星空を背負ったデュークを見上げる。
『宝って、何?』
『許してくれる?』
宝とは何なのか。そう尋ねても、許しを乞うだけで教えてはくれない。
ただ、デュークが浮かべている微笑みが、サキに不安だけは与えなかった。
うん。
サキは頷いていた。
デュークがサキを傷つけないと、思っているからこそ許しを与えていた。
『ありがとう。たくさん、宝を残せるよう頑張るよ。』
デュークの顔がサキの視界を覆い尽くし、まだまだ冷たいサキの唇に温かさが流れ込んできた。
「お母さん!」
「アンナ?」
少しずつ、サキの予告通りに雨雲が生まれ始めた空を見上げ続けていたサキに、幼い少女の声が掛けられる。
つい先日、10歳の誕生日を迎えたばかりの、どこかデュークの面影が見える女の子。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ!!自分で雨が降るからね、って注意しておいて!自分が家に戻ってこないって、どういうこと!?」
迎えに来たんじゃない!
あの日から、あまり外見に変化が無いサキ。
アンナとの見た目により歳の差は年々無くなっていっている。そして、性格もサキの子とは思えない程にしっかりと、いやサキという母親を見て育ったが故に育まれたしっかり者なのかも知れない。
アンナの背中には、グースカと寝息を上げる2歳となる弟がおんぶ紐でしっかりと括られていた。
「ごめん?」
「謝る時に、なんて"?"がつくの?もう、お父さんがクロノ達とお出掛けしてる時なんだから、お母さんがしっかりしてよ!」
「ゴメン、ゴメン。あっ、デューク達はもうすぐ帰ってくるよ。ご馳走を作ってお出迎えしようか。」
しっかりして、と怒り顔のアンナだったが、サキが父や弟妹達の帰還を伝えれば、ほんの少しではあるが顔を喜びに綻ばしてみせた。
しっかりもので、強がってみせるアンナだったが、そういう所は子供らしく可愛らしい。
「分かった。じゃあ、ご馳走を作る準備するから先に帰るね。お母さんは、焦らずゆっくり、でも寄り道しないでちゃんと帰ってきてね!」
この前みたいに転びそうになるのは駄目だよ。
本当に、すっかりと父親に似たアンナは、サキの膨らみが目立つお腹を指差して見せた後、軽やかな走りで家に帰っていった。
デュークは宝をたくさんくれた。
サキが将来、寂しくないように。悲しくないように。
デュークとサキの血を受け継ぐ、子供という宝物。
今や、サキの周りには子供達の笑顔が溢れている。長女であるアンナを筆頭に、一組の双子を入れて8人の子供達。アンナは普通の人として生まれたたが、そのすぐ下に生まれた子は狼の姿を取ることもある。蛇の姿に変じる子も生まれた。
数日前から、身重のサキに変わって、デュークが聖獣の血の大きな子達を連れてシグルスの下に出掛けていた。聖獣としての力を制御する為という理由での申し出は、断ることは難しい。それが、例え曾孫を会いたいという願いが込められていると分かっていても。
廃墟と化し、誰一人として足を踏み入れることのない厭われの地となった王都で眠るアデライトも、最近では時折目覚める事が出来るようになった。
その時には、サキは子供達を連れてアデライトに会いに行く。
サキは今、とてもとても幸せだった。
『祟り姫』は恋をして、身を焦がす憎悪から解放される。憎しみをよりも愛おしむ事に身を包む。愚かな人だけでなく、世界には優しき人々も居るのだと思い出す。
そして目覚めて、己が子等が息づく地を護る『守護聖獣』となった。
人の世代にして数代の後、死なずの存在となり世界中を彷徨う二人の男女と相対した時、彼女はただ笑みを浮かべていることだろう。
彼女の中を満たし尽くす幸せは、憎き者達の存在を遠く忘却の彼方に捨て去らせる。
お付き合いありがとうございました。




