第9話:日曜の夕暮れ(34歳)
日曜日の午後四時。部屋の畳に斜めに差し込むオレンジ色の光が、埃のダンスを不気味なほど鮮明に照らし出している。
この時間が、僕は昔から一番嫌いだった。
明日から始まる、また同じ一週間。
朝七時三十分のアラーム。結露した窓。満員電車の他人の体温。上司の無意味な叱責。そして、深夜のコンビニ弁当。
その光景が、まるで録画されたビデオを何度も再生するように脳裏をよぎる。
三十四歳になった僕の体は、いつの間にかこの「退屈」を、物理的な吐き気として感知するようになっていた。
胃の奥が重く、冷たい。
けれど、その吐き気の原因を突き止めて取り除こうという気概すら、今の僕には残っていない。ただ、その不快感さえも「日常の一部」として受け入れているだけだった。
僕は重い腰を上げ、クローゼットから月曜日用のワイシャツを取り出した。
アイロン台を出し、スイッチを入れる。
シューッ、という蒸気の音が、静かな部屋に響く。
かつて、何かの本で読んだことがある。
「人間は、夢があるから生きていける」と。
ならば、僕のような男は、一体何のためにこの儀式を繰り返しているのだろうか。
アイロンの熱を布に滑らせながら、僕はふと、窓の外を眺めた。
アパートの前の公園では、若い父親が幼い子供とボール遊びをしていた。
子供が転び、父親が笑いながら駆け寄る。
その光景は、あまりにも眩しく、そして僕にとっては宇宙の裏側の出来事のように遠かった。
彼らには「守るべきもの」があり、「繋ぐべき未来」があるのだろう。
僕には、何もない。
誰かと深く繋がることを避け、自分をすり減らすような情熱を拒絶し、事なかれ主義という盾で自分の周囲を塗り固めてきた結果が、この完璧なまでの「空白」だ。
ふと、一ヶ月前に久しぶりに連絡が来た母のことを思い出す。
『誠、体に気をつけてね。たまには帰ってきなさいよ』
その声さえも、今の僕には遠いノイズのようにしか聞こえなかった。親孝行をしたいという欲求も、親に甘えたいという感傷も、僕の中の「空洞」を通り抜けて消えていく。
アイロンを終えたシャツをハンガーにかける。
シワ一つない、真っ白なシャツ。
それは、何も描かれることのない僕の人生そのもののようだった。
僕は再びベッドに横たわり、スマホを手に取った。
いつものように、現実逃避のためのWeb小説を開く。
ランキングには相変わらず、全ステータスMAXの男がすべてを手に入れる物語が並んでいる。
――圧倒的なフェロモンと暴力。
――女も、権力も、すべてを奪い尽くす王。
その文字を追いながら、僕は微かな、本当に微かな違和感を覚えた。
すべてを手に入れたその「王」は、最後には何を思うのだろうか。
欲しいものをすべて手に入れ、跪く臣下と愛を囁く女たちに囲まれて。
その先に待っているのは、結局、僕と同じような「極致の退屈」ではないのだろうか。
奪うものがなくなった時、その男の心には、僕と同じような真っ暗な穴が空くのではないか。
「……いや、考えすぎか」
僕はスマホを放り投げた。
そんなドラマチックな結末なんて、僕のような男には縁がない。
僕の人生に起こるのは、明日もまた始まる「時間の消化」だけだ。
死ぬまでの、あまりにも長い長い暇つぶし。
夕日は沈み、部屋は急速に夜の闇に飲み込まれていく。
電気をつけるのも億劫で、僕は暗闇の中で天井を見つめ続けた。
胃の奥の吐き気は、いつの間にか消えていた。
代わりに、全身を包み込むような心地よい虚無が、僕の意識を塗り潰していく。
明日もまた、僕は「普通」を演じるだろう。
死ぬその瞬間まで、僕はこの「何も持たない、何もしない自分」を維持し続ける。
それが、僕がこの世界に対してできる唯一の、そして最後の抵抗のような気がしていた。
三十四歳の、どこにでもある日曜日の夕暮れ。
僕は、自分の人生に一ミリの希望も絶望も抱かないまま、ただ次の朝が来るのを待っていた。
あと一年で、そのすべてが終わるとも知らずに。




