第10話:鉄骨の雨、エピローグ(35歳)
三十五歳、独身。
朝起きて、満員電車に揺られ、上司にペコペコと頭を下げて、深夜にコンビニ弁当を食って寝るだけの日々。
そんな、数え切れないほど繰り返してきた「いつも通り」の朝が、僕の人生の最後の一ページになるとは、微塵も思っていなかった。
駅へ向かう道すがら、工事現場の脇を通り抜ける。
クレーンが高くそびえ立ち、鉄骨が空を切り裂くように吊り上げられている。その金属的な冷たさは、僕がこれまで積み上げてきた無機質な三十五年間の象徴のようにも見えた。
ふと、昨夜読んでいたWeb小説の続きを思い出す。
すべてを手に入れ、権力の頂点に立った最強の王。彼は今、何をしているのだろうか。絶世の美女を抱き、逆らう者を暴力でねじ伏せ、望むすべてをステータスMAXの力で奪い尽くしているのだろうか。
もし。
もし万が一、僕のような空っぽな男が、そんな過剰な「力」を手に入れてしまったら。
「……結局、何も変わらないんだろうな」
僕は自嘲気味に呟いた。
ステータスがMAXだろうが、フェロモンが溢れていようが、暴力で世界を支配しようが。
僕という器が空洞である限り、どれだけ贅沢な果実を詰め込んだところで、その渇きが癒えることはない。
強すぎる力も、深すぎる愛も、僕にとっては「消費すべき退屈な時間」の対象が変わるだけに過ぎない。
狂うほどの恋もしたことがなければ、誰かを殴り飛ばすほどの怒りも、世界をひっくり返すような野望も抱いたことがない。
事なかれ主義だけを信条に、ただレールの上を歩き、ただ息をしていただけの、色を持たないモブ人生。
ふと、頭上で嫌な音がした。
金属が軋み、ワイヤーが弾ける、鋭く不吉な音。
見上げると、青い空を背景に、数トンの鉄骨が重力に従ってこちらへ向かってくるのが見えた。
周囲の悲鳴が遠くなる。
逃げようと思えば、逃げられたのかもしれない。
けれど、僕の足は動かなかった。
恐怖よりも先に、「あぁ、これでようやく、この暇つぶしが終わるんだ」という、奇妙なほど澄み渡った納得が胸を満たしたからだ。
視界が、巨大な鉄の塊で塗り潰される。
――あぁ、なんて退屈な人生だったんだろう。
頭上から落下してきた数トンの鉄骨に押し潰され、俺の意識がプツリと途切れる直前。最後に脳裏をよぎったのは、恐怖でも痛みでもなく、薄っぺらい己の人生に対する呆れにも似た虚無感だった。
肉体が潰れ、血が流れる感覚すら、すでに他人事のようだった。
真っ暗な意識の底で、何かがバグを起こしたように明滅する。
何も持たなかった「鈴木誠」という男の、ゼロだったはずの全パラメーターが、壊れた計器のように一気に跳ね上がっていく幻影を見た。
圧倒的な暴力。
抗えないほどのフェロモン。
すべてを蹂躙し、すべてを奪い尽くすための、「バグった」ほどの全能感。
けれど。
たとえ次に目覚める場所が、どれほど血生臭く、どれほど艶やかな黄金の玉座の上だったとしても。
俺はきっと、また同じ言葉を呟くのだろう。
(……退屈だ)
鈴木誠の物語は、ここで終わる。
そして、何もかもを持ちすぎた「王」の、あまりにも退屈すぎる一生が、どこか遠い軍事国家で、産声と共に始まろうとしていた。




