第8話:30歳の誕生日(30歳)
三十歳。
世間では節目の年などと言われ、これまでの人生を振り返ったり、これからのキャリアを真剣に考えたりする時期らしい。
けれど、僕にとっては、ただのカレンダーの数字が一つ繰り上がっただけの話だった。
深夜、残業を終えて帰宅する途中のコンビニで、小さなショートケーキを買った。
祝いたいわけじゃない。ただ、世の中の「三十歳の誕生日」というイベントの平均的な過ごし方を、義務的にこなしているだけだ。
六畳一間のアパート。
蛍光灯の青白い光の下で、プラスチックのフォークを使い、無機質な味の生クリームを口に運ぶ。
「……おめでとう、自分」
声に出してみたが、狭い部屋に虚しく響いて消えた。
ふと、SNSで流れてきた同級生の投稿を思い出す。
結婚して子供を抱いている奴。起業して成功を掴んだ奴。皆、自分の人生の「主役」として、熱を帯びた物語を紡いでいる。
それに引き換え、僕の人生はどうだ。
三十年間、誰かを心の底から愛したことも、殺したいほど憎んだこともない。
世界を揺るがすような野望もなければ、守り抜きたいと願う宝物もない。
僕が死んだとして、誰が泣くだろうか。
親は悲しむかもしれない。けれど、会社は数日もすれば代わりの「部品」を補充し、僕のデスクは何事もなかったかのように新しい誰かに占領されるだろう。
僕という存在は、この世界において一滴のインクのようなものだ。
巨大な海に落とされ、誰にも気づかれずに拡散し、ただ消えていく。
ふと、またあの「異世界転生」の小説を思い出す。
もし。
もし、この空っぽの僕に、抗えないほどの「力」が与えられたら。
すべてを奪い、すべてを支配し、この退屈な世界を自分の色で塗り潰すことができたら。
――いや、よそう。
そんなことを想像するエネルギーすら、今の僕には残っていない。
僕は最後の一口を飲み込み、空になったプラスチックの容器をゴミ箱に捨てた。
明日も、今日と同じように目が覚める。
明日も、今日と同じように、ただ時間を潰すための作業に向かう。
三十歳の誕生日。
僕が手に入れたのは、円熟味でも経験でもなく、ただ「自分が救いようのない空洞である」という、冷徹な再確認だけだった。
布団に潜り込み、目を閉じる。
暗闇の中で、心臓が一定のリズムを刻んでいる。
その鼓動さえも、ただ「死ぬまでの秒読み」をしているだけのように感じられて、僕は静かに意識を手放した。




