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第6話:満員電車の歯車(26歳)

 午前七時三十分。スマートフォンのアラームが、枕元で無機質な電子音を奏でる。

 僕は一度も寝坊したことがない。起きたいから起きるのではない。ただ、そう設定されているから体が動くだけだ。

 駅のホームに立つと、そこには僕と同じ、死んだ魚のような目をした「部品」たちが隙間なく並んでいた。

 扉が開くと同時に、人の波に押し流されるように車内へ。他人の体温と、湿った吐息、微かな香水の匂いが混じり合う。数年前なら不快に感じたかもしれないこの空間も、今ではただの「背景」だ。

 吊り革を掴むことすらできず、周囲の圧力に身を任せる。

 ふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 二十六歳。若者と呼ぶには擦れ、大人と呼ぶには空虚な男がそこにいた。

 

「……ああ、あと何回、この電車に乗ればいいんだろうな」

 心の中で呟く。絶望しているわけではない。ただ、単純な算数をしているだけだ。定年まであと三十数年。日数にして約一万日。それをこの「空白」で埋め尽くす作業。

 会社に着けば、デスクには昨日やり残したタスクと、上司からの理不尽な修正依頼が積み上がっている。

 

「おい、鈴木。この資料、データの整合性が取れてないぞ。やる気あるのか?」

 課長が僕のデスクを叩く。周囲の同僚が同情、あるいは無関心の視線を向ける。

 僕は立ち上がり、角度の決まったお辞儀をした。

「申し訳ありません。すぐに修正いたします」

 怒りは湧かない。悲しくもない。

 怒るためには、仕事に対して何らかの「こだわり」や「自尊心」が必要だが、僕にはそんなものは欠片もなかった。謝罪は、この場を円滑に収め、再び「退屈な静寂」を取り戻すための最も効率的な手段に過ぎない。

 パソコンの画面に向かい、キーボードを叩く。

 カチャカチャという乾いた音が、僕の人生の鼓動のように響く。

 

 時折、隣の席の同期が「将来は起業したい」だの「もっとデカい仕事がしたい」だのと熱っぽく語ることがある。彼は自分のステータスを上げ、世界に足跡を残そうと必死だ。

 僕はそれを、遠い異国の神話でも聞くような心地で聞き流す。

 

 何かを成し遂げたいという「熱」は、僕の回路には組み込まれていない。

 僕が求めているのは、達成感ではなく、ただ一日の終わりに訪れる「無」だ。

 深夜。コンビニの明かりに吸い寄せられるように入り、適当な弁当と缶ビールを買う。

 

 アパートに帰り、テレビもつけずに冷めた弁当を口に運ぶ。

 味はするが、心は動かない。

 

 明日もまた、七時三十分にアラームが鳴る。

 明日もまた、満員電車に揺られる。

 そうやって、自分という存在を少しずつ摩耗させていく。

 

 二十六歳の秋。

 僕は、自分が望んだ通りの「完璧な歯車」になれたことを、暗い天井を見つめながら自覚した。

 そこには喜びも悲しみもなく、ただ、ひたすらな凪だけが広がっていた。

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