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九皿目

夜明け前の部屋は、まだ薄暗かった。


カーテンの隙間から、わずかに青い光が差し込んでいる。


静かな呼吸。


ベッドの上で、恋人が眠っている。


規則正しい寝息が、部屋の中にやわらかく広がっていた。


男は、少しだけその姿を見つめる。


起こさないように、ゆっくりと近づく。


そっと、額に口づけを落とした。


「……いってきます」


声には出さない。


それでも、言った気がした。



キッチンは整っていた。


必要なものは、すべて揃っている。


けれど――


使われた形跡は、ほとんどない。


棚の奥。


布に包まれた包丁。


手に取れば、きちんと手入れされているのがわかる。


錆び一つない。


切れ味も、きっと落ちていない。


だが、それだけだ。


フライパンも同じだった。


奥にしまわれたまま、静かに眠っている。


調味料の瓶は、ほとんど減っていない。


男はしばらくそれらを見ていた。


触れない。


手を伸ばさない。


ただ、視線だけを置いて――離す。


「……あの頃とは、違う」


小さく、呟く。


誰に聞かせるでもなく。


自分に言い聞かせるように。



玄関を出る。


ひんやりとした空気が、頬に触れた。


風が、静かに通り過ぎる。


まだ人の気配は少ない。


街は眠りと目覚めのあいだにあった。


男は歩き出す。


仕事へ向かう足取りは、迷いがない。


それでも――


ほんのわずかに、重さが残っていた。


曲がるはずのない路地へ、足が向く。


見覚えのない道。


それでも、不思議と違和感はなかった。


風が、また吹く。


その先に――


灯りが見えた。


風に導かれるように、男は足を止めた。


そこに、一軒の店があった。


白い壁。


やわらかな灯りが、窓から滲んでいる。


壁には、緑のツタが静かに這っていた。


朝焼け前の淡い空気の中で、それだけが、はっきりと温かい。


こんな場所に、店があっただろうか。


見覚えはない。


だが――


なぜか、通り過ぎる気にはならなかった。


しばらく立ち尽くす。


風が、もう一度吹いた。


背中を押すように。


男は、小さく息を吐く。


そして、扉に手をかけた。



鈴の音が、控えめに鳴る。


店の中は、静かだった。


外の冷たい空気とは違う、やわらかな温もりがある。


「いらっしゃいませ」


穏やかな声。


マスターが、カウンターの向こうでこちらを見ていた。


男は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頷く。


促されるまま、席に座る。


木のカウンターは、どこか懐かしい手触りだった。



マスターは何も言わず、カップを一つ置いた。


湯気が、静かに立ちのぼる。


淡く、甘い香り。


男はそれを見つめる。


少しだけ迷い――


やがて、手に取った。


一口。


ゆっくりと飲み込む。


その瞬間。


張り詰めていたものが、ほんの少しだけほどけた。


「……」


言葉にはならない。


けれど、確かに何かが緩んでいた。


男はカップを置く。


しばらく黙っていたが――


やがて、ぽつりと口を開いた。


「……今さら、なんですけど」


視線は落としたまま。


「昔、料理人を目指してたんです」


間。


「修行もしてました」


「でも……」


小さく息を吐く。


「恋人ができて」


「安定した仕事に、変えて」


「……そのまま、結婚の話になって」


言葉が、少しずつほどけていく。


「それ以来、料理は……してません」


沈黙。


否定も、肯定もない。


ただ、そこにあるだけの空気。



やがて、料理が運ばれてくる。


深い色の煮込み料理。


静かに湯気を立てている。


肉と野菜が、ゆっくりと形を残したまま沈んでいた。


男はスプーンを取る。


一口。


「……」


わずかに目を見開く。


次の一口。


ゆっくりと、噛む。


「……柔らかい」


ほろりと崩れる。


力を入れる必要もない。


時間が、そのまま形になったような食感だった。


さらにもう一口。


「……あれ」


小さく、呟く。


「さっきより……」


味が、深い。


角が取れている。


まろやかに、広がる。


男は無意識に、もう一口運んでいた。



その様子を見ていたマスターが、静かに言う。


「火を止めても、味は変わり続けます」


それだけ。


それ以上は、何も言わない。



男の手が、止まる。


スプーンの先から、ゆっくりと雫が落ちた。


視線が、皿へ戻る。


「……」


言葉にはならない。


だが、その一言は、確かに届いていた。



気づけば、皿は空になっていた。


男はしばらく動かなかった。


やがて、ゆっくりと立ち上がる。


「……ありがとうございました」


その声は、来た時とは少し違っていた。


何を選んだのかは、誰も聞かない。


男は店を出る。



外の空気は、少し明るくなっていた。


風が吹く。


朝が、すぐそこまで来ている。


男は足を止めずに歩いていく。


その背中は――


ほんの少しだけ、軽く見えた。



店の中。


マスターは何も言わず、カップを片付ける。


そして――


ほんのわずかに。


いつもより、やわらかく笑った。


最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。

またのお越しを、心よりお待ちしております。


※当店はゆっくり、不定期営業となっております。

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