十皿目
扉の鈴が、静かに鳴った。
「いらっしゃいませ」
セラの声。
入ってきたのは、二十代後半ほどの女性だった。
整った身なり。
けれど、その表情はどこか落ち着かない。
店内を見回し、少し迷ってから席に座る。
マスターが何も言わず、カップを置く。
湯気が立つ。
女性はそれを見つめて――
すぐには手を伸ばさなかった。
「……あの」
小さく、声を出す。
「ここって……」
言葉が続かない。
少し笑って、誤魔化す。
「変なこと聞きますけど」
「ここ、どこなんでしょう」
巡が軽く肩をすくめる。
「さあ」
素っ気ない返答。
女性は困ったように笑う。
「……ですよね」
やがて、カップに手を伸ばす。
一口。
少しだけ、表情が緩んだ。
それでも――
すぐに視線が揺れる。
「……あの」
また、同じ言い方。
「こういうときって」
巡を見る。
「どうしたらいいと思いますか?」
巡は、一瞬だけ黙る。
「……何が」
「選べなくて」
言葉が、少しずつ零れる。
「仕事も」
「引っ越しも」
「結婚も」
苦笑する。
「全部、選ばなきゃいけないのに」
「どれも、決められなくて」
セラは、静かに聞いている。
口は挟まない。
女性は続ける。
「だから、誰かに決めてもらえたらって思って」
少しだけ、恥ずかしそうに笑う。
「……変ですよね」
巡は、短く息を吐いた。
「そうだな」
はっきり言う。
女性の目が、わずかに揺れる。
「なんで、自分で決めないんだよ」
その言葉は、少しだけ強かった。
空気が、静かに張る。
女性は視線を落とす。
「……怖いから、です」
小さく。
「選んで、間違えたらって思うと」
「だったら、誰かが決めてくれた方が」
言葉が止まる。
「……楽で」
巡の眉がわずかに寄る。
「それ、逃げてるだけだろ」
セラの視線が、ほんの少しだけ巡へ向く。
女性は、何も言い返さない。
ただ、カップを見つめる。
そのとき。
マスターが、静かに料理を置いた。
小さな皿。
中身は、二つに分かれている。
同じように見えて、少しだけ違う。
「……これは」
女性が戸惑う。
マスターは言う。
「どちらでも」
それだけ。
女性は、皿を見つめる。
右を見る。
左を見る。
スプーンを持つ。
止まる。
また、戻す。
時間が、流れる。
やがて。
女性は、ふっと笑った。
「……やっぱり、決められません」
申し訳なさそうに。
「すみません」
そのまま、立ち上がる。
料理には、手をつけない。
「ありがとうございました」
軽く頭を下げて――
店を出ていく。
鈴が鳴る。
静寂が戻る。
「……なんだよ、それ」
巡の声は、低かった。
「選ばないのも、選択だよ」
アリスが軽く言う。
「違うだろ」
即答だった。
「選んでないだけだ」
セラは、何も言わない。
ただ、静かに巡を見ている。
カウンターの上には、手つかずの皿。
まだ温かい。
誰にも選ばれなかった料理。
「……次のシフト、確認しますね」
セラが静かに声をかける。
巡は小さく頷き、ポケットから手帳を取り出す。
その瞬間。
ひらり、と。
一枚の写真が落ちた。
「あ――」
拾おうとした手より、わずかに早く。
セラが、それを拾う。
写真を、見る。
ほんの一瞬。
だが――
その瞳に、わずかな変化が走った。
理解。
言葉にはしない。
けれど、確かに。
巡は、少しだけ顔を背ける。
「……ありがとう」
それだけ言って、写真を受け取る。
すぐに手帳にしまい、閉じた。
セラは何も言わない。
ただ、静かに元の位置に戻る。
「もったいないなぁ〜」
アリスがぱっと顔を上げる。
「これ、食べていい?」
もう明るい。
空気を切り替えるように。
「いただきまーす♡」
スプーンを入れる。
軽い音。
巡は、それを見ている。
何も言わない。
「……なんで決めないんだよ」
小さく、呟く。
店の外。
白い壁に絡むツタが、風に揺れていた。
その揺れは、どちらにも傾かないまま――
ただ、続いていた。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
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