八皿目
扉の鈴が、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ〜♡」
明るい声とは裏腹に、店に入ってきた男の足取りは、どこか重かった。
三十代半ばほどだろうか。
身なりは整っている。
けれど、その顔には、はっきりと疲れが滲んでいた。
視線が、店内をゆっくりと巡る。
――ふと、巡と目が合う。
その瞬間。
巡の呼吸が、わずかに止まった。
「……?」
違和感。
ほんの一瞬だけ。
――誰かに、似ている。
だが、思い出す前に、男は視線を逸らした。
気のせいだと、巡は無理やり飲み込む。
「……ここ」
男が、小さく呟く。
「こんな場所……ありましたっけ」
そして、巡の方を見る。
「……あなた、日本人ですよね?」
一瞬だけ、巡の動きが止まる。
「……そうだけど」
男は少しだけ安堵したように息を吐く。
「やっぱり」
それから、静かに続けた。
「ここ、日本じゃないですよね」
巡は、迷わず答える。
「違う」
その言葉に、男の表情がわずかに変わる。
驚きというより――納得。
「……やっぱり」
目を伏せる。
「そういう場所、なんですね」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて男は、ぽつりと呟いた。
「……もしかして」
顔を上げる。
「ここって」
「消えられる場所……なんですか」
店の空気が、わずかに変わる。
巡は何も言わない。
代わりに、男はカウンターの奥を見る。
「……残ることは、できますか」
マスターへ向けた言葉。
マスターは、少しだけ目を細めた。
そして、何も大げさなことは言わずに――
ただ、短く何かを伝える。
男の表情が、静かにほどけた。
「……そうですか」
小さく、息を吐く。
そのとき、料理から立ちのぼる香りに気づいたのか、
男が、ぽつりと呟く。
「……いい匂いですね」
その声音に。
巡の指先が、わずかに止まった。
――似ている。
今度は、はっきりと。
だが、その“誰か”の名前だけが、浮かばない。
「じゃあ」
迷いは、なかった。
「戻りません」
巡の心臓が、強く鳴る。
「……あんた」
気づけば、口が動いていた。
「帰れるんだろ」
男が振り向く。
「だったら、帰れよ」
空気が止まる。
男は、少しだけ驚いたように巡を見る。
だが、怒りはない。
ただ――
静かに首を振った。
「……もう、いいんです」
その一言に、すべてが詰まっていた。
男は、振り返らないまま続ける。
「……ここ、落ち着きますね」
どこか、懐かしそうに。
その言い方が。
どうしても――引っかかった。
巡は何も言えない。
男は軽く頭を下げると、そのまま店の外へ向かう。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
振り返らない。
そのまま、外へ出た。
⸻
しばらくして、巡は外へ目を向ける。
砂利道。
――ではない方へ。
何もない、ただの空間へ。
男は迷わず、そちらへ歩いていく。
足場もない。
道もない。
それでも、止まらない。
やがて、その姿は――
夕暮れの中に、溶けるように消えた。
⸻
静寂。
巡は、動かない。
そして、ぽつりと。
「……なんで、帰らないんだよ」
小さく、こぼれる。
マスターが静かに言う。
「帰らないのも、選択だよ」
間を置かず、巡が返す。
「……違うだろ」
低い声。
視線は落ちたまま。
「帰れるなら」
拳が、わずかに握られる。
「帰るべきだ」
空気が張り詰める。
セラは、二人を見た。
何も言わない。
けれど、その表情がほんのわずかに揺れる。
――何かがある。
そう感じ取るだけで、口にはしない。
⸻
カウンターの上。
一皿が、残されていた。
誰にも手をつけられないまま。
湯気は、まだ静かに立ちのぼっている。
温もりだけが、そこに残っていた。
「もったいな〜〜い!」
場の空気を破るように、アリスがひょいと顔を出す。
「これ、アリスのまかないにしちゃいまーーーす♡」
ぱっと皿を持ち上げる。
くるりと回って、嬉しそうに笑う。
「こういうの、一期一会なんだからねっ」
その軽やかさに、少しだけ空気が緩む。
⸻
店の外。
白い壁に、淡い緑のツタが絡んでいる。
夕陽を受けて、それは静かに輝いていた。
風が吹く。
葉が、やわらかく揺れる。
まるで、誰かの選択を見守るように。
その店は、今日もそこにある。
迷う者を、迎えるために。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




