七皿目
部活終わりの火照った頬に、不意に風が吹き抜けた。
さっきまで耳をつんざくようだった蝉時雨は、いつの間にか力尽きたように途絶え、空が高く遠くなる。
コートを囲む緑のネットの隙間から覗く世界は、格子状に切り取られて、どこか遠い場所のことのように見えた。
コートの向こう側では、彼と幼馴染の女の子、それに数人の友人たちが、近い距離で楽しそうにサーブ練習をしていた。
乾いた打球音が、規則正しく響く。
そのリズムが、なぜか胸の奥をざわつかせた。
見ていられなくなって、視線を逸らす。
「……帰ろ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
足が、自然と動く。
校門を出て、見慣れた帰り道を歩いているはずなのに、どこか違う。
風の匂いが、少しだけ変わっていた。
ふと顔を上げる。
そこに、見覚えのない店があった。
白い壁に、淡く緑のツタが這っている。
さっきまで通っていた道に、こんな店はなかったはずなのに。
立ち止まる。
胸の奥のざわつきが、少しだけ静まる気がした。
――入ってみようか。
カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ〜♡」
そこには、桜色の髪を三つ編みのシニヨンにまとめた店員が立っていた。
ぱっと花が咲いたみたいな笑顔。
一瞬だけ、胸がざわつく。
――なんでだろう。
うまく言葉にできないまま、視線を逸らした。
少し戸惑いながらも、案内されるままに席へと座る。
「メニューはお任せになってます!アリスが担当しちゃうよ〜」
きらきらと目を輝かせながら、ぐいっと距離を詰めてくる。
近い。明るい。
その空気に、思わず肩がこわばった。
――ああ、こういう感じ。
頭の中に、別の誰かの笑顔がよぎる。
思わず、俯いた。
アリスはそんな様子も気にした様子はなく、ぱん、と手を合わせる。
「ねえねえ、なんかさ!」
身を乗り出してくる。
「甘酸っぱーーーい♡って感じの匂いするんだけど!」
弾けるような声。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「はいこれ〜!」
軽やかな声とともに、目の前にカップが置かれる。
「真実のお茶。まずはこれね♡」
立ちのぼる湯気。
ほのかに甘い香りがする。
「……真実?」
思わず小さく呟くと、アリスはにこっと笑った。
「そうそう。飲むとね、ちょっとだけ正直になれるの」
軽い調子なのに、どこか逃がしてくれない響き。
視線を落とす。
カップの中で、揺れる液面。
――正直、なんて。
そんなの、簡単にできたら苦労しない。
「でねでね〜!」
間髪入れず、次は皿が置かれる。
「とろけるベリーチーズパンケーキ♡」
ふわりと甘い香り。
色鮮やかなベリーソースが、とろりとかかっている。
「甘くて〜、ちょっとすっぱくて〜、最高なんだよこれ!」
本当に嬉しそうに笑う。
その無邪気さに、少しだけ息が詰まった。
――やっぱり、似てる。
あの子に。
視線を逸らす。
スプーンを持つ手が、わずかに止まった。
「……食べないの?」
アリスの声。
さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ落ち着いている。
顔を上げると、じっとこちらを見ていた。
逃げられない。
ゆっくりと、パンケーキをすくう。
一口。
甘い。
次に、ベリーの部分が舌に触れる。
少しだけ、すっぱい。
思わず、息を吐いた。
「……なんか」
言葉が、勝手にこぼれる。
「ごちゃごちゃしてる」
アリスが、くすっと笑う。
「でしょ?」
頷く。
「でも、それでいいんだよ〜」
さらりと言ってのける。
「好きってさ、そういうもんだし」
心臓が、どくんと鳴った。
スプーンを持つ手に、力が入る。
「……違います」
小さく、否定する。
「私は……」
言葉が詰まる。
喉の奥が、少しだけ熱い。
アリスは急かさない。
ただ、楽しそうに頬杖をついている。
「いいよいいよ、ゆっくりで♡」
逃げ場なんて、やっぱりない。
でも――
少しだけ。
さっきよりも、息がしやすかった。
ふと、視線が逸れる。
カウンターの奥。
黒髪をポニーテールに結んだ店員が、静かに何かを整えていた。
白い壁にかかっていた小さな装飾を外し、代わりに落ち着いた色合いの葉をあしらっていく。
季節が、少しだけ移り変わっていた。
その動きは無駄がなく、ただ淡々としているのに――どこかやわらかい。
目が合った気がした。
ほんの一瞬。
彼女は何も言わない。
ただ、わずかに目を細めただけだった。
それだけで、不思議と胸の奥が落ち着く。
「ねえねえ、今のマスター見た?」
すぐ横で、アリスが小声で囁く。
「レアだよ〜?あの顔♡」
思わず、そちらを見る。
アリスは楽しそうに笑っている。
「ま、でも今日はこっちね〜」
指先で、パンケーキをとんとん、と示す。
「ちゃんと向き合お?」
軽い声。
だけど、逃がす気はない。
視線を落とす。
甘さと、少しの酸味。
スプーンを、もう一度手に取った。
気づけば、皿は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
小さく呟く。
アリスは満足そうに笑って、ひらひらと手を振った。
「いってらっしゃ〜〜い♡」
扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴る。
外の空気が、少しだけ冷たかった。
一歩、踏み出す。
砂利道。
靴の裏で、小さく音が鳴る。
何歩か進んでから、ふと振り返った。
――そこには、もう何もなかった。
さっきまであったはずの店も、白い壁も、緑のツタも。
ただ、見慣れた帰り道が続いているだけ。
「……夢でも、見てたのかな」
小さく呟く。
でも――
胸の奥は、不思議と軽かった。
口の中に、ほんの少しだけ残る。
甘さと、少しの酸味。
その余韻を確かめるように、息を吐く。
少女は、前を向いた。
足取りは、さっきよりもほんの少しだけ軽い。
夕暮れの中へ、静かに歩き出した。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




