六皿目
白い壁には、淡く緑のツタが静かに這っている。
どこか懐かしく、落ち着く空間。
外の喧騒とは切り離されたような、小さな店だった。
カラン、と鈴が鳴る。
扉を開けると、柔らかな灯りが迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥で、マスターのリヴィアが穏やかに微笑む。
その声だけで、張り詰めていた何かが、ふっとほどける気がした。
店内には、ほのかな香りが満ちている。
温かく、優しい匂い。
男は少しだけ目を細め、静かに席へと腰を下ろした。
癖のある黒髪。
三十代半ばほどだろうか。
穏やかな顔立ちの奥に、迷いが滲んでいる。
カウンターの端では、巡がカップを手にしていた。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。
男はしばらく何も言わなかった。
ただ、店の空気を確かめるように、静かに息を吐く。
やがて、小さく口を開いた。
「……ここは」
リヴィアは、変わらぬ笑みで応える。
「迷い人のための場所です」
それ以上は説明しない。
男も、深くは問わなかった。
代わりに、ぽつりと呟く。
「……帰るべきか、迷っているんです」
巡の指先が、わずかに止まる。
男は続ける。
「祖母が……長くないと」
静かな声だった。
「昔から世話になっていて。……本当なら、すぐにでも顔を見せるべきなんでしょう」
一度、言葉が途切れる。
「でも」
視線が落ちる。
「こっちにも、大事なものができた」
巡は、何も言わない。
ただ、カップを持つ手に、ほんの少し力がこもる。
リヴィアは、静かに頷いた。
「かしこまりました」
振り返り、キッチンへ向かう。
その背中に、迷いはない。
やがて運ばれてきたのは、ひとつの皿。
白い器の中で、半分ずつ色が違う。
片側は、やさしいクリーム。
もう片側は、少しだけ濃い色のソース。
湯気が、静かに立ちのぼっている。
「ハーフアンドハーフのドリアです」
男は皿を見つめる。
スプーンを手に取るが、すぐには口に運ばない。
しばらくして、ゆっくりと一口。
そのまま、もう一口。
今度は、違う側をすくう。
味の違いを確かめるように、静かに噛みしめる。
店の中は、ただ穏やかだった。
音はほとんどない。
あるのは、湯気と、呼吸と、わずかな食器の触れる音だけ。
巡は、カップを見つめたまま動かない。
——帰り方。
ふと、記憶がよぎる。
あの人は、知っていた。
教えてくれたこともある。
帰り方も。
選び方も。
なのに——
唇が、かすかに結ばれる。
視線だけが、カウンターの奥へ向く。
巡の指先に、わずかに力がこもる。
何も言わない。
ただ、熱だけが、じわりと広がっていく。
ふと、脳裏に浮かぶ。
戻らなかった人のことが。
男は、スプーンを止めた。
皿の上を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……どちらかを、捨てる必要はないのかもしれない」
その声は、小さく。
けれど、確かに形を持っていた。
湯気が、静かに立ちのぼる。
まだ、冷めきってはいない。
リヴィアは、その言葉に、わずかに目を細める。
ほんの一瞬だけ。
何かを思い出すように。
――それから、いつもの穏やかな表情に戻った。
男はもう一口、ゆっくりと食べる。
左右を交互に。
混ぜるでもなく、分けるでもなく。
ただ、そのまま。
やがて、スプーンを置いた。
「……ごちそうさまでした」
深く頭を下げる。
その顔は、来た時よりも少しだけ穏やかだった。
立ち上がり、扉へ向かう。
カラン、と鈴が鳴る。
外の空気が、一瞬だけ流れ込む。
振り返らない。
それでも、足取りに迷いはなかった。
扉が閉まる。
再び、静かな店内。
巡は、カップを口元へ運ぶ。
ぬるくなりかけたそれを、一口。
何も言わない。
ただ、わずかに息を吐いた。
リヴィアは、食器を片付けながら、ふと小さく笑う。
いつもより、ほんの少しだけ。
やわらかく――
そして、どこか大きく。
白い壁に、ツタの影が揺れていた。
ー遠い日の選択を、
肯定するように。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




