十五皿目
扉の鈴が、控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ」
静かな声。
セラが振り向く。
入ってきたのは、五十代ほどの男だった。
背筋は伸びている。
服装も整っている。
けれど――
どこか、迷いを抱えた顔をしていた。
男はゆっくりと席に座る。
店の中は、ただ穏やかだった。
音はほとんどない。
湯気と、呼吸と、わずかな気配だけ。
その静けさの中で――
男は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
マスターが、何も言わずにカップを置く。
湯気が、静かに立ちのぼる。
淡く甘い香り。
「……」
男はそれを見つめる。
少しだけ迷ってから、手に取る。
一口。
ゆっくりと飲み込む。
そして――
小さく息を吐いた。
「……選べなくて」
ぽつりと、言葉が落ちる。
セラは、何も急かさない。
ただ、そこにいる。
「手術を、勧められているんです」
男は続ける。
誰に聞かせるでもなく。
「成功すれば……助かる」
「でも、リスクもある」
視線が揺れる。
「後遺症が残るかもしれないし、再発の可能性もある」
カップの中の液面が、わずかに揺れた。
「……受けなければ」
言葉が途切れる。
「長くは、もたないそうです」
静かな空気。
男は苦笑した。
「情けない話ですよ」
「どちらを選んでも、不安しかない」
少しの沈黙。
そのとき。
マスターが、静かに皿を置いた。
湯気の立つリゾット。
やさしい香りが、静かに広がる。
マスターは、短く言う。
「どうぞ」
それだけだった。
男はスプーンを手に取る。
一口。
ゆっくりと口に運ぶ。
「……ああ」
ほっとしたような息。
だが、少しだけ首をかしげる。
「少し……固い、ですかね」
マスターは答えない。
否定も、肯定もしない。
男はもう一口食べる。
ゆっくりと。
時間をかけて。
会話はない。
ただ、静かな時間が流れる。
やがて。
「……あれ」
男が、小さく呟く。
「さっきより……ちょうどいい」
リゾットは、ほんのりと柔らかくなっていた。
余熱が、静かに火を通している。
そのとき。
マスターが、静かに口を開く。
「完成は」
一拍置く。
「決めるものじゃない」
男の手が止まる。
「流れの中で」
「そうなることもある」
沈黙。
言葉が、ゆっくりと落ちていく。
男は、カップに目を落とした。
「……どちらを選んでも」
ぽつりと。
「自分でいられるでしょうか」
マスターは、短く答える。
「選んだあとで」
一瞬の間。
「自分になる」
それだけだった。
気づけば、皿は空になっていた。
男はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……決めました」
その声には、迷いがなかった。
だが――
どちらを選んだのかは、誰も聞かない。
男は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
扉へ向かう。
一度だけ、立ち止まる。
「……どちらでもいいんですね」
振り返らないまま。
マスターは答える。
「いい」
短く。
「あなたが選ぶなら」
男は、小さく笑った。
そのまま、外へ出ていく。
鈴が鳴る。
静寂が戻る。
その中で――
マスターの口元が、わずかに緩んだ。
ほんの少しだけ。
いつもより、やわらかく。
だがそれは一瞬で消える。
何事もなかったかのように、静けさが戻る。
巡は、しばらく何も言わなかった。
ただ、カップの中の揺れを見ていた。
「……どっちでもいい、か」
小さく、呟く。
その言葉は、どこか引っかかるように、胸に残る。
店の外。
白い壁に絡む緑のツタが、風に揺れている。
夜の空気は、静かでやわらかい。
どこかで、誰かが選び終えた音がした気がした。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




