十六皿目
店の中は、静かだった。
いつもと同じはずなのに、どこか違う。
巡は、カウンターに座っていた。
目の前には、一皿。
湯気は立っていない。
けれど――
「……これ」
懐かしい匂いがした。
知っている。
忘れるはずがない。
「食べてみて」
マスターの声。
静かで、変わらない。
巡は、ゆっくりとスプーンを取った。
一口。
口に運ぶ。
――その瞬間。
呼吸が、止まった。
「……っ」
夕焼けのキッチン。
狭い台所。
背中越しの声。
「危ないぞー、火つけてるからな」
笑っていた。
振り返って、スプーンを差し出して。
「ほら、味見」
同じ味だった。
「……なんで」
手が震える。
「これ……なんでここにあるんだよ……」
顔を上げる。
マスターは、ただ見ている。
何も言わない。
その沈黙が、余計に怖かった。
巡の中で、ずっと引っかかっていたものが浮かぶ。
「……最初から、知ってたんだろ」
低い声。
「俺が誰かも」
「ここに来た理由も」
マスターは、否定しない。
巡の喉が鳴る。
「……帰れるんだろ」
視線が揺れる。
「この店」
「元の世界に、帰れる方法があるって……」
それは、もう聞いていた。
知っていた。
だからこそ――
「……なんで言わなかったんだよ」
声が、少しずつ強くなる。
「叔父さんに」
沈黙。
「言わなかったんだろ……?」
絞り出すような声。
「帰れるって」
「方法があるって」
拳が震える。
「……あんたが、隠したんじゃないのかよ」
店の空気が、わずかに張り詰めた。
巡は、止まらない。
「そうじゃなきゃ、おかしいだろ……!」
「なんで帰らないんだよ……!」
「俺、待ってたんだよ……!」
息が荒くなる。
「ずっと……!」
「何も言わずにいなくなって……!」
声が、かすれる。
「なのに、こんなとこで……」
言葉が、途切れる。
マスターは、静かに口を開いた。
「伝えたよ」
一瞬、理解できなかった。
「……え?」
「帰る方法があること」
「ちゃんと、伝えた」
巡の思考が止まる。
「……じゃあ」
声が震える。
「なんで……」
マスターの視線は、変わらない。
「選んだの」
短く。
静かに。
「ここに残ることを」
空気が、落ちる。
巡の目が、揺れる。
「……なんでだよ」
かすれた声。
マスターは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「長くは、生きられなかったから。
帰っても、終わるだけだった。」
その一言で。
すべてが、崩れる。
「……は」
理解が、遅れて追いつく。
「なに、それ……」
「戻っても、同じだった」
「むしろ、苦しむ時間が増えるだけ」
静かに、続く。
「だから、ここで生きることを選んだ」
巡の呼吸が、乱れる。
「……じゃあ」
喉が詰まる。
「俺は……」
「何を、待ってたんだよ……」
目に、涙が滲む。
「……なんで言わなかったんだよ」
小さく、こぼれる。
マスターは、少しだけ首を横に振った。
「言えなかったの」
その声は、やわらかい。
「優しい人だったから」
巡の肩が揺れる。
「……お前なら大丈夫だって」
その言葉に、息が止まる。
「そう言ってた」
視界が、滲む。
「……勝手に決めんなよ」
笑うように、歪む。
「大丈夫なわけ、ないだろ……」
それでも。
皿の上の料理は、変わらない。
あの頃と同じ味で。
「……うまい」
小さく、呟く。
涙が落ちる。
止まらない。
それでも、手は止まらなかった。
最後の一口まで、食べる。
飲み込む。
静寂。
やがて、巡は顔を上げた。
目は、赤い。
でも――逃げていない。
「……マスター」
声は震えている。
それでも、はっきりと。
「次、ください」
マスターは、静かに頷く。
そして――
一枚の皿を、差し出した。
「……?」
巡は、その皿を見つめた。
何も、乗っていない。
湯気もない。
匂いもない。
ただの、白い皿。
「……これ」
思わず、顔を上げる。
マスターは、変わらない表情のまま言った。
「最後の一皿」
静かな声。
「決めるのは、巡だ」
その言葉が、ゆっくりと落ちてくる。
巡は、皿に視線を戻した。
何もない。
――はずなのに。
胸の奥に、いくつも浮かんでくる。
夕焼けのキッチン。
笑い声。
焦げかけた卵焼き。
「失敗したなー」って笑ってた顔。
何気ない日々。
当たり前だった時間。
「……っ」
奥歯を噛みしめる。
浮かぶのは、それだけじゃない。
ここで出会った人たち。
迷っていた人。
選んだ人。
残った人。
帰った人。
全部――
答えを押しつけてはこなかった。
ただ、見せてくれただけだ。
どう生きるかを。
どう選ぶかを。
巡の指先が、わずかに震える。
「……叔父さんは」
小さく、呟く。
「ここを選んだんだよな」
マスターは、何も言わない。
否定もしない。
肯定もしない。
それが、答えだった。
巡は、ゆっくりと息を吸う。
吐く。
視線を上げる。
「……マスター」
声は、まだ少しだけ震えている。
それでも――
もう、さっきまでとは違う。
「決めました」
間が落ちる。
静かな店内。
その空気の中で、巡は言う。
「俺は――」
⸻
店の扉が、静かに閉まる。
外は、夕暮れだった。
白い壁に絡む緑のツタが、
橙色の光を受けて揺れている。
風が吹く。
葉擦れの音が、やさしく響く。
その小さな店は、
変わらずそこにあった。
迷った誰かを迎え入れ。
選んだ誰かを見送り。
今日もまた、
静かに灯りをともしている。
やがて。
店の奥から、
誰かの笑う声が、かすかに漏れた。
それが誰の声だったのかは、
もう分からない。
けれど――
どこか、
あたたかかった。
夕陽が落ちていく。
白い壁が、
淡い金色に染まる。
その光の中で。
蔦の葉が、
静かに揺れていた。
『一皿の約束』 完
最後までお召し上がりくださり、ありがとうございました。
いつかまた巡り会えますように……




