十三皿目
店の中は、静かだった。
柔らかな光。
ゆっくりと流れる空気。
巡は、カウンターに肘をついて、ぼんやりと入口を見ていた。
カラン、と鈴が鳴る。
入ってきたのは、一人の女性だった。
四十代くらい。
きちんと整えられた服装。
けれど――どこか落ち着かない。
視線が、定まらない。
「……ここ」
小さく呟く。
「あら?記憶違いかしら?」
女性は、席につく。
手が落ち着かない。
膝の上で、指を握りしめている。
マスターは何も言わず、テーブルを拭いていた。
布が、静かに木目をなぞる。
そのまま、湯気の立つカップを置く。
香りが、ふわりと広がる。
女性は少し驚いたようにそれを見る。
「……あの」
ぽつりと、口を開く。
「変な話なんですけど」
カップに手を添える。
「宝くじ、当たったんです」
巡の眉が、わずかに動く。
女性は苦笑する。
「自分でも、まだ現実感がなくて」
一口、お茶を飲む。
少しだけ、息が整う。
「家族に言うべきか……迷ってて」
視線が揺れる。
「言えば、喜ぶと思うんです」
「でも……」
言葉が詰まる。
「何かが変わる気がして」
指先に、力がこもる。
「良くも、悪くも」
そのとき。
マスターが、静かに皿を置いた。
白い皿の上に並ぶ、揚げ春巻き。
こんがりとしたきつね色。
ぱり、と音がしそうなほど軽やかな衣。
女性は目を瞬かせる。
「……これ」
マスターは、短く言う。
「食べてみて」
それだけだった。
女性は、そっと一本手に取る。
少しだけ迷う。
そして――一口。
サクッ。
静かな店に、小さく音が響く。
「……あ」
思わず声が漏れる。
中から広がる味。
優しい甘み。
けれど、あとからほんの少しの刺激。
驚きと、安心が同時にくる。
「……美味しい」
ぽつりと呟く。
もう一口。
サクッ、と軽い音。
女性は小さく笑った。
「……なんだろう」
「ちょっと怖かったのに」
視線を落とす。
「食べてみたら……そんなに悪くない」
マスターが、静かに口を開く。
「中身は、見えない方がいいこともある」
女性が顔を上げる。
「見えないからこそ」
一拍置く。
「そのままでいられることもある」
店の空気が、わずかに変わる。
女性は、言葉を探すように視線を落とした。
やがて。
皿は、空になっていた。
女性は、ゆっくりと息を吐く。
「……決めました」
来たときより、少しだけ軽い声。
「言いません」
巡が、わずかに視線を上げる。
女性は苦笑した。
「たぶん私……」
少し考える。
「変わるのが、怖いんです」
小さく笑う。
「でも、それも含めて……私なので」
顔を上げる。
「このままでいたいと思いました」
マスターは、その言葉を静かに聞いていた。
そして――
ほんの少しだけ、口元が緩む。
いつもより、わずかに。
気づかなければ見逃すほどの、小さな変化。
けれどそれは、
確かに――やわらかい笑みだった。
巡は、その表情に気づかなかった。
女性は立ち上がる。
「ありがとうございました」
来たときよりも、まっすぐな背中。
カラン、と鈴が鳴る。
静けさが戻る。
巡が、ぽつりと呟く。
「……言わないんだな」
マスターは答える。
「選んだの」
それだけ。
巡は、少しだけ視線を落とす。
「……それでいいのかよ」
小さな声。
マスターは何も言わない。
店の中は、再び静けさに包まれる。
白い壁。
淡い緑のツタ。
外の光が、やわらかく揺れていた。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




