十二皿目
扉の鈴が、静かに鳴った。
「いらっしゃいませ」
セラの声が、穏やかに響く。
入ってきたのは、五十代ほどの男だった。
少しやつれた顔。
整えられた身なり。
だがその目は――どこか現実から切り離されたように、ぼんやりとしていた。
男は店内を見回す。
ゆっくりと。
壁。
灯り。
静かな空気。
そして、ぽつりと呟く。
「……そうか」
小さく、納得したように。
「ここは……天国、か」
誰も否定しない。
セラは、ただ静かに微笑むだけ。
「お席へどうぞ」
男は素直に頷き、カウンターへと歩いた。
しばらく、言葉はない。
店の静けさが、男の呼吸をゆっくり整えていく。
やがて。
マスターが、何も言わずにカップを置いた。
淡い湯気。
やわらかな香り。
男はそれを見つめる。
「……ああ」
小さく笑う。
「最後に、こんな場所に来られるとはな」
一口、飲む。
肩の力が抜ける。
「……帰る場所が、ないんです」
ぽつりと落ちる言葉。
巡の指が、わずかに止まる。
「家族はもういない」
「仕事も、終わった」
淡々とした声。
「帰っても……誰もいない」
カップの中の液面が揺れる。
「だったら」
息を吐く。
「帰る意味も、ないでしょう」
沈黙。
その空気を破ったのは、巡だった。
「……帰る理由がない?」
低い声。
抑えているのに、震えている。
男が顔を上げる。
巡はまっすぐ見ていた。
「それ」
一歩、踏み出す。
「お前が“知らないだけ”だろ」
空気が止まる。
「向こうに誰もいないって」
「勝手に決めつけてるだけで」
喉が詰まる。
それでも、止まらない。
「お前のこと、待ってるやつがいるかもしれねぇだろ」
男の目が揺れる。
「お前が大事に思ってたみたいに」
「向こうにも、お前を大事に思ってるやつがいるかもしれねぇだろ」
一拍。
息が重く落ちる。
「……勝手に、いないことにすんなよ」
静寂。
男は視線を落とす。
「……そうかもしれないな」
小さく呟く。
「でもな」
ゆっくりと顔を上げる。
「それでも、帰る理由にはならないこともある」
巡は言葉を失う。
「……選ぶのは、その人です」
セラの声。
静かで、揺れない。
「帰ることも」
「帰らないことも」
「どちらも、その人の選択です」
「でもさ」
アリスが軽く笑う。
「待ってる人がいるかもって思えるのって、ちょっといいよね」
やわらかい声。
「それだけでも、悪くないと思うなぁ」
巡は何も言えない。
納得できないまま、黙る。
やがて。
男が静かに立ち上がる。
「……決めました」
穏やかな声。
「帰りません」
迷いはない。
「ここで終わるのも、悪くない」
その瞬間。
マスターが、ほんのわずかに近づいた。
誰にも聞こえない声で――
男に、何かを囁く。
男の目が、わずかに見開かれる。
そして、静かに頷いた。
「……そうか」
小さく笑う。
「そちら、ですか」
男は軽く頭を下げる。
「ありがとう」
そして、扉へ向かう。
鈴が鳴る。
だが――
彼は、外の通りへは出なかった。
店の脇に伸びる道。
踏み固められたじゃり道ではない方へ。
迷いなく、そのまま歩いていく。
やがて、静かに姿を消した。
沈黙。
巡は何か小さく呟いた。
マスターは、何も言わない。
ただ、静かに巡を見ている。
カウンターの端に、一皿が残っていた。
誰も手をつけなかった料理。
湯気だけが、静かに立っている。
いつものようにアリスが気づく。
「あっ!」
ぱっと明るくなる。
「もったいなーい!」
勢いよく手を伸ばす。
「これ、私のまかないにしちゃいまーーす♡」
空気が、ふっと軽くなる。
巡は、それを見ていた。
何も言わず。
ただ、少しだけ視線を落とす。
店の外。
白い壁に絡む緑のツタが、風に揺れている。
夜の空気は、静かでやわらかい。
また一人、選び終えた気配だけが残っていた。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




