十一皿目
「だから、タイミングってのがあるんだろ!?」
夜の歩道に声が響く。
彼女が振り返る。
「そればっかり!」
ヒールの音が強く鳴る。
「相変わらずね!」
彼氏が言葉に詰まる。
「だって、お前……」
そこで止まる。
“仕事が波に乗ってる”
以前、彼女が嬉しそうに話していた言葉が浮かぶ。
「どうせあなた、
優柔不断発揮してるんでしょ!」
「違っ……」
「違わない!」
彼女はそのまま背を向けて歩き出す。
夜風が強い。
街灯が滲む。
「ちょ、待てって!」
彼氏が追いかける。
しばらく歩いて。
ふと、彼女が足を止めた。
「……え?」
細い路地。
見覚えのない灯り。
白い壁。
絡まる緑のツタ。
小さな店。
「あれ……こんな場所、あったっけ」
その瞬間。
ぐぅ……。
腹の音が鳴った。
彼女が顔をしかめる。
彼氏が思わず吹き出す。
「……笑わないで!」
「いや、ごめん」
でも少しだけ、
空気が緩む。
店の扉から、あたたかな光が漏れていた。
まるで誘われるみたいに。
彼女は小さく息を吐く。
「……入る」
「え?」
「お腹空いた」
彼氏が苦笑する。
「……俺も」
「ついてこないでよ!」
そう言いながら。
彼女は扉を開けた。
鈴の音が、静かに響く。
「いらっしゃいませ」
静かな声が、店内に響く。
セラは二人を見る。
互いに少し距離を空けて立つ姿。
噛み合わない視線。
けれど――
完全に壊れているわけではない。
その空気を、セラは静かに受け取っていた。
「こちらへどうぞ」
案内された席へ座る。
彼女は窓側。
彼氏は少し遅れて向かいへ腰を下ろした。
店の中は、不思議なくらい落ち着いていた。
柔らかな灯り。
木の香り。
遠くでは、マスターが静かに紙をめくっている。
古びたレシピ帳を整理しているようだった。
ページを揃える音だけが、時折響く。
やがて。
セラが、二人の前へカップを置いた。
淡く透き通った琥珀色。
「こちらを」
ふわりと立ち上る香り。
彼女が小さく首を傾げる。
「……お茶?」
セラは頷くだけ。
彼氏がそっと口をつける。
「……あ」
少しだけ、表情が緩む。
彼女も恐る恐る飲む。
温かさが、喉を落ちていく。
沈黙。
けれど、さっきまでの刺々しさは少しだけ薄れていた。
彼氏が、そっと身を乗り出す。
「……ねぇ」
彼女はそっぽを向いたまま。
彼氏は苦笑しながら、指先で彼女の頬を軽くつついた。
「怒んないで?」
「……子供じゃないんだから」
そう言いながらも、
彼女は完全には振り払わない。
「だって怖いんだもん」
「は?」
「今のお前、めちゃくちゃ怖い」
彼女が思わず吹き出しかける。
だが、すぐ顔を戻す。
「……知らない」
でも、声は少しだけ柔らかかった。
その様子を。
少し離れた場所で、巡が見ていた。
テーブルを拭く手を止めずに、
ぼそりと呟く。
「……話し合えばいいだけじゃん」
小さな声。
誰にも届かないくらいに。
奥では、マスターが静かにレシピを整理している。
何も言わない。
ただ、ページをめくる音だけが静かに響いていた。
やがて。
セラが皿を運んでくる。
「お待たせしました」
テーブルへ置かれた瞬間。
二人の動きが止まった。
「……え?」
皿の上。
そこにあったのは――
火の通っていない、生のステーキ肉だった。
彼女が困惑したように目を瞬く。
彼氏も思わずセラを見る。
「これ……」
「まだ、焼いておりません」
セラは静かに答える。
「焼き加減を伺っておりませんので」
沈黙。
二人は、互いに顔を見る。
さっきまで、
ちゃんと見ていなかったみたいに。
「……どうしますか」
セラが静かに尋ねる。
彼氏が戸惑ったように肉を見る。
「いや……どうって」
彼女が眉を寄せる。
「……普通、聞くものじゃないの?」
「え?」
「相手がどうしたいか」
彼氏が言葉に詰まる。
「私はミディアムが好きだけど」
「え、そうなの?」
彼女がじろりと睨む。
「……知らなかったの?」
「だって、お前いつも先に言うし……」
言ってから、
彼氏がはっとした顔をする。
彼女も、一瞬黙る。
「……言わなきゃ分かんないじゃない」
ぽつりと落ちた言葉。
それは、
料理の話だけではなかった。
セラは静かに二人を見る。
「好みは、人によって違います」
穏やかな声。
「ですが」
ほんの少し間を置く。
「伝えていただけなければ、
こちらには分かりません」
沈黙。
彼氏が視線を落とす。
「……俺」
言葉を探すように。
「お前、仕事好きだろ」
彼女は黙って聞いている。
「今すごく頑張ってるし」
「結婚とか子供とかで、
負担になるんじゃないかって」
「だから……今じゃない方がいいのかなって」
声が小さくなる。
「勝手に決めつけてた」
彼女は、ゆっくり息を吐く。
「……私は」
指先でカップを撫でる。
「ちゃんと一緒に考えてほしかっただけ」
視線が揺れる。
「この先のこと」
「家族のこと」
「あなたと」
彼氏の目が、少し見開かれる。
遠くで。
巡が、拭いていた手を止めていた。
何も言わない。
けれどその視線だけが、
ほんの少しだけ揺れていた。
マスターは変わらず、
静かにレシピを整理している。
古い紙を整えながら。
まるで、
誰かの選択を急かさないように。
やがて。
彼女が小さく笑う。
「……じゃあ」
彼氏を見る。
「ミディアムで」
彼氏も、少し照れたように笑った。
「……俺も」
セラは静かに頷く。
「かしこまりました」
皿を下げる。
厨房の奥で、
火が入る音がした。
じゅう、と。
静かな店に、
あたたかな音が広がっていく。
しばらくして。
運ばれてきたステーキからは、
香ばしい匂いと湯気が立っていた。
二人は顔を見合わせる。
さっきより少しだけ、
自然に。
ナイフが入る。
柔らかな肉汁が溢れる。
彼女が一口食べる。
「……おいしい」
彼氏も頷く。
「うん」
その声は。
ようやく同じ温度になっていた。
食事を終えた頃には。
二人の間にあった尖った空気は、
少しだけほどけていた。
「……ごちそうさまでした」
彼女が小さく頭を下げる。
彼氏も続く。
セラは静かに会釈した。
扉を開ける。
夜風が流れ込む。
さっきまで冷たく感じた空気が、
今は少しだけ心地いい。
店を出たあと。
彼氏が、そっと口を開く。
「……ちゃんと話す」
彼女は少し驚いた顔をする。
「お前と」
短い言葉。
けれど、
今度は逃げていなかった。
彼女は小さく笑う。
「……うん」
二人の距離が、
帰る時には少しだけ近くなっていた。
白い壁に絡む緑のツタが、
夜風に揺れる。
窓から漏れる灯りは、
静かに二人の背を照らしていた。
最後までお召し上がりいただき、ありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
※当店はゆっくり、不定期営業となっております。




