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第38話 最後の幸せ

 コトコトとビーフシチューがお鍋に煮えています。



 家のキッチンで夕食を作っていました。



 けれど、わたくしは元気がありません。



 カバンに荷作りは済んでいました。今夜、この家ともお別れです。楽しかったマコトとのささやかな暮らし。それらを思い出して胸が切なくなりました。



 後は、彼に何て言えば良いか、です。



 玄関で物音がしました。扉を開けて、勇者様が顔を見せます。その様子はちょっと慌てていました。



「ノクティア!」



 わたくしはオタマをお鍋に置いて、玄関へと歩きます。



「マコト、お帰りなさい」



「早退したって聞いたけど、体は大丈夫なのか?」



 マコトの額には汗が浮かんでいました。ここまで走って来たのか、青いTシャツが湿っています。



 わたくしは精一杯、微笑みを浮かべました。そして嘘をつきます。



「ちょっと、風邪気味みたいなの」


「そうか……病院には?」


「行って参りました」


「先生は何て言っていた?」


「それが、ただの夏風邪だと。熱も無くて、すぐに治るらしいですわ」


「……そうか、良かった!」



 マコトが肩を落としてほっとため息をつきます。



 わたくしは目に涙がにじんでこらえました。



「ご飯ができていますわ。マコト、テーブルの椅子にお座りになって」


「ああ、ありがとう。だけど、今日は早く寝てくれよ」


「承知しました。心配症な勇者様」



 わたくしは背中を向けてキッチンへと行きました。ちょっと高級な牛肉で作ったビーフシチュー。それを深皿に盛り付けます。パンと付け合わせの野菜、マコトの大好きな内臓系のコリコリとした肉料理をテーブルに並べました。



 二人で並んで座っていただきます。



「ノクティア、やっぱり、まだ血液が足りないんじゃないか?」


「うふ、そうかもしれませんわね」


「何か、いつもより元気も無いし、今日も早く休んだ方がいいね」


「あら、今夜はわたくしを離さないのでは?」


「さすがに、風邪を引いている君に無理をさせるつもりは無いよ」


「優しいマコト」


「いま気づいたかい?」


「知っておりました」


「僕は優しいんだ、君だけにね」


「わたくしだけですの?」


「ああ」


「ありがとう」



 二人が見つめ合います。



 どちらとも無くキスをしました。



 ……すごく甘い。



 けれど、



 これが最後のキスであることも勇者様は知らずにいます。



 それからはいつもの調子で、会話をしながら夕食摂りました。マコトはランクの高い牛肉に気づくことも無く、むしゃむしゃと咀嚼しています。



 猫のチケとミルは来ません。



 あの子たちは気まぐれなのです。



 今日は違う家で夕食を分けてもらっているのでしょう。



 どうしてか、寂しい気がしました。



「勇者様」


「なんだい?」


「……わたくしは、幸せでございます」


「僕もそうだよ」


「ええ、とても」


「……どうしたんだい? ノクティア、やっぱり、元気が無いみたいに見えるけれど」


「風邪のせいですわ」


「そっか。じゃあ、ベッドで暖めてあげる」


「うふふ」



 そして夕食を終え、キッチンで勇者様が洗い物をしてくれました。風邪を引いたと思っているわたくしのために、一肌脱いでくれたようです。



 二人で椅子に座ってくつろいで。



 今日は早めに寝室へと向かいました。



 みそぎを済ませて、パジャマに着替えます。一つのベッドに並んで入り、勇者様が尋ねました。



「ノクティア、どこか寒いところはある?」


「お腹が」


「分かった」



 マコトが後ろからわたくしのお腹を抱きしめてくれました。



「ありがとう」


「なあ、ノクティア」


「はい」


「僕は、君が好きなんだ」


「わたくしも好きでございます」


「……なあ、ノクティア」


「はい」


「君が僕のことを好きな気持ちよりも、僕は君のことが好きなんだ」


「あら、負けませんわ」


「勝負するかい」


「受けて立ちます」


「君の顔は天使みたいに綺麗だ、そこが好きだ」


「マコトのお顔の方が、凜々しくって、整っていますわ。格好良いです」


「君の身長は低いね。僕はそんなところも好きなんだ」


「あら、どうしてでしょう?」


「ははっ、僕は子供が好きなのかな? だから、身長の低い女の子である君が、気になるんだ」


「照れます」


「君のお尻は少し大きいね。すごく女の子らしくて、好きだ」


「あら、女性は誰でも成長すれば、大きくなるものですのよ?」


「うん。だから、すごく女の子らしさを感じるよ。好きだ」


「大きいお尻が好きなのですか?」


「うん。僕は君のお尻を見ると、すごくエッチな気分になる」


「……しますか?」


「しないよ。君の風邪が治るまで、僕は待つんだ」


「しても良いですのよ?」


「ダメだよ。君が、万全の状態でないと」


「そうですか」


「ほら、君はこんなにも優しい。だから、好きだ」


「……照れちゃいます」


「君の髪は良い匂いがする。すごく爽やかな香りだ。好きだ」


「あまり嗅がないでくださいませ」


「嫌だ」


「……いじわる」



 それからもマコトは理由を言って、わたくしに愛をささやいてくれます。胸がキュンキュンとして、嬉しくて、どこか切ない時間。三十分もそうしていたでしょうか? 彼の口からやがて規則的な寝息が聞こえてきました。



 ――さよなら、マコト。



 わたくしは彼の両手を解いて、布団から出ます。ベッドに腰掛けて立ち上がり、ふと振り返りました。



 幸せそうな寝顔を浮かべている勇者様。



 可愛い。



 わたくしだけのマコト。



 そっと手を伸ばしかけて、



 わたくしはその手を引っ込めます。



「バイバイ、マコト」



 小さくつぶやきました。



 勇者様は眠ったままです。



 それからツキウサギ製の白い普段着に着替えました。腰に剣のベルトを装着します。わたくしはにじんだ涙を手で拭って、室内を後にしました。ダイニングへ行きます。テーブルの椅子に座りました。魔法灯も点けずに、窓から差し込む月明かりの中、手紙をしたためます。



 マコトへ。



 そこまで書いて、手が止まりました。



 何と書いたら良いのか分かりません。



 手紙をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に捨てます。



 テーブルの上に家の合鍵を置きました。



 そして周囲の見回します。



 勇者様の使っていた椅子。



 短い間でしたが、お世話になりました。



 キッチンの裏の用意してあったカバンを持って、玄関を出ます。



(さようなら、わたくしの幸せ)



 月明かりが強く照らす夜でした。



 わたくしは町の中心地へと向かって歩き出します。深夜営業の飲み屋さんで時間を潰そうと思っていました。



 けれど。



 ――目の前に立ち上る黒い影。



 わたくしはびっくりとして、それからため息をつきました。



 家々の建物の影から生じたその人型の魔物が、こちらへと歩いてきます。両手に一振りの杖を持っていました。



「こんばんは、姉さん。今宵は月夜だね」


「姉さん? わたくしに弟なんておりませんが?」


「違うよぉ。姉さぁん。貴方は魔王の第一王女なんだ。父さんはそう言っていた」



 ちょっと気持ちの悪いしゃべり方でした。



「父さん?」


「魔王様のことだよ」


「では、貴方は魔王の息子、という認識でよろしいかしら?」


「そうそう。僕は第二王子なんだ。名前はクラディアスだよ。だけど、父さんは僕に王位を継承してくれない。貴方の方が良いみたいだよ?」


「よく分かりませんが」


「つぅまぁりぃ、魔王様は貴方に、次期魔王になって欲しいと思っているのさ。姉さぁん」


「それはまたどうしてでしょう? 理由を教えてくださる?」


「それはねぇ、姉さんの能力だよ。魔力を無効化する体質なんて、最強じゃないか。ずるいよ、姉さんは」


「どうして知っているのでしょうか?」


「ロザリーが教えてくれたからだよ。えっと、サキュバスの彼女さ」



 この間戦った、魔王軍の後に出て来た女性モンスターのことでした。



 わたくしは決然と言い放ちます。



「わたくしは次期魔王になどなりません」


「ふぅーん、でもねぇ、父さんは貴方を選んだんだぁ。だからねぇ、俺としては姉さんが邪魔なんだよぉ。すごく邪魔なんだ。姉さんさえいなければ、俺が次期魔王になれるんだ。なれるはずなのに、姉さんがいるからなれないんだよ。父さんは姉さんが良いって言うからさぁ。だからぁ、姉さぁん。ここで死んでくれる?」



 わたくしはカバンを地面に下ろします。



 剣を抜き放ちました。



 月夜に照らされて、刃がギラリと光ります。



「死ぬつもりはありません」


「僕の影魔法に、果たして勝てるかなぁ? 姉さぁん」



 クラディアスがその場で溶けるように姿を消しました。



 ――嘘。



 空間転移ってことかしら。



 わたくしは周囲に体を回転させます。



 ふと背後から、剣が横薙ぎに振るわれました。わたくしの足を狙っています。



 風切り音。



 わたくしはジャンプして回避します。



 振り向くと、そこにクラディアスの姿はありません。



 両手に剣をゆったりと構えて、五感を研ぎ澄ませます。



 ……相手の能力を見定めなければ!



「姉さぁん、こっちこっち」



 右手の方から声が響きました。



 顔を向けると誰もいません。



 その代わりに、わたくしの影から腕が浮き上がり、杖で背中を狙いました。



「くっ」



 わたくしは思いっきり前に飛んで、土の地面に転がって受け身を取ります。すぐに起き上がりました。



 ……。



 相手は物陰や、わたくしの影を移動できるようですわ。



 そういう能力を持っているようです。



 平屋の木々の影から、クラディアスが現われて歩いてきます。演技がかった仕草で両手を叩き合わせました。



「すごいすごい姉さん! すごい戦士の嗅覚だよ! だけどパンツの色が黒って言うのは、もしかして勝負下着なの?」



 ……気持ち悪いです。



 わたくしはもう話しかけませんでした。



 相手に目がけて地面を疾走します。



 クラディアスが唱えました。



「日陰落ちて穴いずる


 底なし沼」



 わたくしから半径5メルほどの地面に黒い影が広がりした。



 ――これに飲まれてはいけません。



 わたくしは前宙、



 剣を地面に叩きつけます。



 影がひび割れるように砕け散りました。



「本当に魔力を斬りやがったの!?」



 クラディアスの驚いた声。



 わたくしは白い弾丸となって敵に突っ込みます。



 弓矢のようにしなる体。



 一閃。



「う、うわあぁぁあああああ!」



 相手の肩を切り裂きました。



 だけど浅い。



 クラディアスはまた影のように消失し、今度は遠くの家の門の影から現われます。



「俺の、俺の肩を斬ったな……」


「あら、でしたら逃げれば良いのでは? 追いかける気はありませんのよ」


「姉さぁん、俺は貴方を殺すよ。そして姉さんの愛する人も全部殺す」


「ふーん、ごあいにく様。わたくしは今からこの町を出るところですの」



 ――嘘が通じれば良いのだけれど。



 この町にこれからも滞在することが知れれば、町が狙われてしまう。



「無駄だよ。無駄無駄ぁ。だって、姉さんからは魔王の波動がプンプンと漂っているからさぁ。どこに逃げたって、追いかけて殺すよ」


「では、どこまでも逃げます」


「だから無駄だって言ってるじゃん」


「では、ここで貴方を殺します」


「……バイバイ姉さん、また来るよ」



 第二王子が影のように溶けて消失します。



「くっ」



 周囲を見回しました。



 すでに敵の気配は去っています。



 わたくは眉をひそめてため息をつきました。



 剣を鞘に戻します。



 カバンのところに戻り、それを拾い上げて肩にかけました。



 ――ラスティン様のおっしゃることは本当だった。



 彼はわたくしを助けようとしてくれている。



 死ぬのが怖い……。



 もう、行くところは一つしかありません。



 わたくしは元気の無い足取りで歩き始めました。



 まるで、人生が閉じてしまったかのような絶望感。



 この二ヶ月と少しのマコトとの生活を思い出しました。



 何気ない暮らしが、とても幸せでした。



 ――さようなら。



 そして、



(ありがとう、マコト)



 わたくしの、たった一人の恋人。

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