妊娠、そして記憶の復活
俺は午後一時に塾に出て、父母に当てた報告書を作成していた。 スマホの呼び出し音が鳴る、美憂からだ。 「先生、今いいかしら?」 「大丈夫だ。 昨日はありがとう、子供達喜んでいたよ。 また、篠原先生になれば良いなーて、騒いでいたな」 「そうなの、皆、頑張ってるみたいで、安心した。 昨日話せなかったけれど、気に成る事があるの」 「何だい?」 「あたしのあれなんだけど、順調だったかしら?」 「あれの事? チョット話ずらくなってきた話題だな」 「あのー、あれが来てないの。 式の一週間前にあって、一月と少しだけど。 順調だった、あたしのあれ?」 「うーん、正確に測っていたわけじゃないけれど、小さい頃は別にして、高校生位からは、29日で正確に回っていたな。 彼とは? そちらは順調?」 「スゴーク、順調。 彼、もう夢中」 「それは良いな、楽しそうだ、羨ましい」 「あれ遅れる事なかった?」 「なかったな。 もしかして、妊娠かもしれないな? でもあんまり初期だから、何とも言えないだろうな? 彼は、喜ぶだろう。 で、良いのかい、君は」 「もう平気、避妊しないでやってたわけだし」「そうか、それは良い、俺の女房も八週目で、悪阻も殆ど無くて順調だよ」 「奥さん、妊娠されてるのね、二人目ね」 「彼には伝えた?」「まだ、なの。 間違いならば悪いし。」
電話を終えてから、座り込み、しばらくぼんやりしていた。 「彼女に対しては平静を装ったが、実は大きなショックを受けたのだ。 入れ替わってから、こんなに動揺するのは初めての事だ。 彼女は平気みたいだ、変わってきたな。 何で、こんなに動揺するのだろう? 俺は大丈夫かな? めでたい事のはずなのに。 元に戻りたい気持ちが一駿だけ巻き起こった。 まあ、そんな事は、もう起きないだろう。 俺は、俺として生きる、とっくにそう決めたはずだ。 今日は、六年生の模擬テストの実施日だ、準備を始めるとしよう。 あいつの妊娠など、俺には関係のない事だ」
「君の生理は順調だった、遅れる事はなかった?」 「小さい頃は別にして、高校生位からは大体29日で正確に回っていたと、思うわ」 「式の、一週間前にあって、今日で37日目か。 調べたほうが良いね。 直ぐに調べよう。 病院まで行くのは時間がかかるから、ドラッグストアーで検査薬買えると思う、俺、直ぐ行ってくるよ」
夫は自転車に飛び乗って、出かけて行った。
15分ばかりで帰ってきた。 息を切らせている、坂を自転車で駆け上がって来たからだろう。 市販薬だけれども、医師らしく、わりと丁寧に添削文を読んでいる。 プラスチックの透明な容器を渡され、「美憂さん、とって来なさい」真剣な表情。
トイレに入り、スカートを上げ便座に掛けると、初めての排尿を思い出し、可笑しくなった。
容器に検査薬を浸し、真剣極まりない表情で確認している。 やがて「ヤッター」と大声を上げ、「美憂、陽性だ。 簡易検査だけど、99.9パーセント妊娠だよ。 ヤッター」
あたしのおしっこの入った容器を置くと、私を強烈に抱きしめ、キスの嵐を繰り広げるのであった。
スカートの上から、私の下腹部を大事そうに摩り、「ここに、新しい小さな命が宿ったのだ、受精してから三週位だろうから、君の子宮に着床しているだろう。 僕たちの命が合わさった、小さな子が、必死で生きているんだ。 体調の変化とか、気分の変化とかはない?」 「特にないわ。 チョット、ショックだったけれど、こんなに早く? 少し驚いたけれど、嬉しいわ」 「女性は産むのが大変だからな、でも出来るだけの事はする。 僕といっしょに産み、育てていこう。 美憂、大好きだよ、愛しているよ」
彼は、何時もよりかさらに情熱的に私を抱きしめ、私を持ち上げグルグル回転し始めたが直ぐに止めた、代わりにキスの嵐を繰り返すのであった。 もう「こ人の愛からは逃れられないのだ」と考えると、嬉しくもあるが、少し恐ろしくもあった。
「あなたの御両親や、あたしの親には、連絡する?」 「まだ、超初期でどうしても流産の可能性はあるから、安定期に近ずくまでは言わなくて、良いだろう。 隠すわけじゃないけれど」 「何を注意すべき?」 「君の生活パターンなら、大体大丈夫だよ。 激しい運動はだめだね、軽い運動なら、した方良いだろう。 喫煙はだめ、だけど、君には関係ないな。 アルコールはほんの少しなら、舐める位なら、OK。 まあ、控えるのが良いか。 カフェインはあまりよくないから、コーヒー、紅茶、コーラは控えめに。 薬は、僕に相談して、君は特に飲んでないみたいだね。それから問題のある食べ物もあるみたいだから、後で良く調べよう」 「セックスはどうかしら?」 彼は、笑いながら「初期は、注意が必要。 今の僕達は、やり過ぎだろう。 僕も注意するよ、膣内出血とかあると、まずいんだ。 成田いらい少しやり過ぎだから、控えよう。 安定期になれば問題はないから、また頑張ろう」彼は微笑んで、私を抱きしめる。
「気持ち悪くなったりしない?」 「別に」 「悪阻は今はまだないな、でもある程度は起きるだろう? そう、葉酸が悪阻には良いんだな、明日入手してこよう」 「お願い、頼むわ。 普通に暮らしていて良いのね?」 「そうだね、大丈夫だよ、君の落ち着いた性格なら。 暴れたり、極端に感情的に成ったりしないし方が良いね。 君は全然そういう性格じゃない。 産科受診しないとね、僕の病院で良いかな?」 「かまわないわ、近くだし、あなたがいた方が安心だし」 「明日、予約しよう。 もう妊娠させたのか? て、からかわれるな」彼は嬉しそうに笑う。 その夜、二人はセックスなしで、愛し合うのであった。
翌朝、彼が出勤して、かたずけや掃除を済ませ、妊娠の知識を得る為、パソコンのページを開く。 スカートの中の下腹部、自分の体内で起きていることを調べるのは、とても興味深くスリリングだ。 「それにしても、この体に成ってまだ三月なのね、信じられないけれど、正に現実。 三回目の生理が来なくて妊娠なんて白昼夢みたいだけれど正に現実ね」 自分の腹部に触れ、「これを守らなくちゃならないのね、ある部分ではもう母なのね。 まあ良いか、心の中でも女性の言葉を使い、美憂として自分とも話しているのだし。 あいつには連絡しておくかな? まあ、お互い自分の過去の厳密な記憶は持たないわけだから、連絡は取りあって行くわけだ。 でも、美憂の過去の記憶、少しだけ何処からか湧き出して来るような気持ちがする。 S女子学院の廊下を、制服を着て髪をポニーテールに纏めた、16-17歳の自分が歩くイメージが浮かぶ。 フルートを練習していると、吹奏楽部でフルートを吹く、自分もイメージ出来る。 その情景が何となく浮かび上がってくるのだ。 どうしてなのだろう?
あの日が転換点になった気がする。 恐れていた、豪華な美しい着物を纏う花嫁を経験して、彼に抱かれてしまった体験、あの日の大事な体験。 あの日から、演じるのではなく、今の自分を生きている気がする。 あいつは、どうなのだろうか?」
「先生、今、大丈夫?」 「アー、君か、今一人だよ」 「私、妊娠でした、昨日わかりました」 「そうー、それは良った、おめでとう、彼、喜んでるだろう。 本当に良かった」 「ありがとうございます。 話は変わるんですけど、私最近、昔の記憶、高校で制服着て授業受けてるとか、修学旅行で友達達と騒いでる情景とか、そんな記憶みたいな雰囲気のものが頭の何処からか湧き上ってくる感じがするの、本当は昔の記憶なんてないはずでしょう? そちらは、どうかしら?」 「俺は、まだアルツハイマー認知症とか成ってないから、記憶は大丈夫だ」 「ふざけないで、ください」 「分かった、ごめんよ。 実は、俺にもそれを少し感じる事がある。 悠人がまだ赤ん坊で、あいつが授乳している光景とか、小学生の君が、塾にいる姿とか、頭の何処からか浮かんで来ることがある」 「そう、そちらも。 もしかして、段々と記憶が、復活してくる? あたしなら、小さい頃の美憂としての記憶が今の私に戻ってくる?」 「そして、入れ替わり以前の記憶が薄れていくのかい?」 「入れ替わり以前の記憶が薄れていく感じは今はないけど非現実的な感じにはなってきているわ」 「俺も、生理の事とか聞かれても、記憶はこそあるが、自分に生理があった記憶には実感は伴わない、女性の生理とか触れてはいけない、雰囲気を感じる」 「だんだん、記憶の消滅と復活が起きて、最後には入れ替わりそれ自体を忘れてしまう?」「分からない、まったく分からない」 「もしも、そうなるなら、それは、良い事なのか? 恐ろしい事なのかしら?」 「俺には、分からない。まったく。 何も言えない」 「私の予感なんだけど、出産の時、前の記憶は完全に失い、美憂としての記憶が完全に復活する?」 「俺にはまったく答え様がないな。 何れにしろ、君は妊娠したし、俺のの女房も妊娠している。 日々の暮らしを大事にして生きるしかないな。 妊娠おめでとう、美憂」




