第8話 反省しています
翌朝、テレーゼは少し寝不足だった。
ぼんやり天井を見上げていると、昨夜の自分の声が、耳の奥でよみがえってくる。
『私、分かりました!』
布団を頭までかぶって、うう、と唸る。
しばらくして顔だけ出すと、今度は別の台詞が追いかけてきた。
『寂しいんですね!』
「ヒャア……」
情けない声が漏れた。
しかも、あれは間違いだった。
自信満々に。
きっぱりと。
テレーゼはのろのろと起き上がり、髪を整え、服を着て、帽子を手に取った。
「今日は市場です」
そう、市場へ行こう。商売をしよう。昨日のことは、ひとまず――
そう決めて、階段を下りる。
「おはようございます」
声をかけた先に、マリーがいた。
「おはようございます」
目が合う。
どちらも、次の言葉が出てこない。
逃げ場は、どこにもなかった。
◇
「パンです」
「ありがとうございます」
「スープです」
「ありがとうございます」
「今日は卵もあります」
「ありがとうございます」
「……ずいぶん大人しいですね」
「反省しています」
「そうですか」
「はい」
テレーゼは、黙ってパンをちぎった。
マリーは、いつもどおりだった。少なくとも、客に対しては。
食器を下げる。別の客に湯を運ぶ。出発する商人から、部屋の鍵を受け取っていく。
「昨日の夕食、ありがとうございました」
声をかけると、マリーは手を止めずに答えた。
「冷めてしまったんじゃないですか?」
「ご主人、温め直してくれました」
「そうですか」
「はい」
それきり、会話が途切れた。
気まずい。
非常に、気まずい。
「あの、マリーさん」
「はい?」
「昨日は、すみませんでした」
マリーが、少しだけ目を丸くした。
「勝手に分かったつもりになって」
マリーの手が、皿の上で止まった。
「余計なことを言いました」
「……ほんと、そうですね」
「はい……」
テレーゼは、椅子の上で小さくなった。
その様子を見て、マリーがふっと笑った。
「そこまで縮まなくても」
「でも」
「私も怒鳴りましたから」
「私に?」
「お父さんに」
「ああ」
「テレーゼさんには……まあ、ちょっと腹が立ちましたけど」
「やっぱり!」
「だって、勝手に人の父親を、寂しがり屋にするんですもの」
「すみません!」
「ふふ」
マリーの目尻が、いつもの形に戻ってきた。
テレーゼの肩から、すとんと力が抜けた。
そうなると、今度は聞きたくなる。
昨夜、主人から聞いた話が、頭の中にあった。
どうして、マリーの後任を探しているのか。
マリーが嫁いだあと、この宿のことを気にせずに済むように。安心して、新しい暮らしへ向かえるように。
「あの――」
口を開きかけて、テレーゼは止まった。
マリーが、こちらを見る。
「どうしました?」
「なんでもありません」
「変な人」
マリーは首を傾げて、厨房へ戻っていった。
テレーゼは、パンをかじりながら考えた。
昨日、主人は自分に話してくれた。
けれど、だからといって、それを自分がマリーに伝えてしまっていいのだろうか。
分からない。分からないなら、聞く。
いや、今は待つ。
「難しい……」
「何がです?」
「ヒャア!」
いつの間にか、マリーがすぐ後ろに戻ってきていた。
◇
その日の市場では、年配の女が石鹸を手に取った。
大きいものと、小さいもの。代わる代わる、見比べている。
テレーゼは口を開きかけて、また閉じた。
やがて女は、半分に切った石鹸を持ち上げた。
「こっちはいくら?」
値段を告げると、女は少し考えてから、その石鹸を買っていった。
そのあと、櫛も一つ売れた。
「今日は静かだね」
隣の乾物売りの女が言った。
「成長しましたので」
「どこか具合悪いのかい?」
「成長です!」
そこだけは、きっちり訂正した。
◇
「ただいまです!」
「おかえりなさい」
夕方、宿に戻ると、いつもの声が返ってきた。
それだけのことで、帽子を脱ぐ手が軽くなる。
「今日はどうでした?」
「黒字です!」
「まあ」
「少しですけど!」
「それでも黒字でしょう?」
「はい!」
「よかったですね」
「はい!」
いつもどおりのやりとり。それだけで、朝よりずっと息がしやすかった。
「今日は何です?」
「鶏と豆です」
「豆!」
「嫌ですか?」
「いいえ! 旅に出てから豆と仲良くなってきました!」
「豆は、そうは思ってないでしょうね」
「どういう意味です?」
マリーが笑い、テレーゼも笑った。
そこへ、厨房から主人が顔を出した。
「マリー」
「なに」
マリーの声が、わずかに硬くなる。
「明日の昼、来るからな」
「誰が?」
「この前話した人だ。働きたいっていう」
「……そう」
「昼過ぎだ」
「分かった」
主人は、それだけ言って厨房へ引っこんだ。
テレーゼは二人を交互に見て、きゅっと唇を結んだ。
何も言わない。今日は、言わない。
「テレーゼさん」
「はい!」
「すごい顔してますよ」
「何も言ってません!」
「顔が喋ってます」
「そんな!」
マリーは、料理の皿を卓に置いた。
「食べてください」
「はい」
匙を取る。
ひと口、ふた口と食べ進めたところで、手が止まる。
「何です?」
「何も言ってません」
「だから顔が」
「マリーさん」
「はい」
テレーゼは、匙を置いた。
「マリーさんは、どうしたいんです?」
それ以上は、何も続けなかった。
マリーは黙って椅子を引いて、テレーゼの向かいに腰を下ろした。
「私?」
「はい」
「どうしたいって?」
「お嫁に行くことじゃなくて」
「うん」
「この宿のことです」
マリーは、口をつぐんだ。
テレーゼも、黙って待った。
しばらくして、マリーがぽつりと言った。
「……ちゃんと引き継ぎたい」
「引き継ぎ」
「うん」
「新しい人に?」
「どんな人が来るのか分からないけど」
マリーは、食堂の中をゆっくりと見回した。
「あそこの床、雨の日は滑るの」
「はい」
「2階の奥の部屋は、窓を閉めるとき、少し持ち上げないと引っかかる」
「はい」
「朝早く出るお客さんがいる日は、前の日に薪を多めに運んでおかないと間に合わない」
「……はい」
「お父さん、忘れるから」
厨房から、声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
「聞かせてるの!」
テレーゼは思わず笑い、マリーも笑った。
けれど、マリーはすぐに真面目な顔に戻った。
「それから、仕入れ先も。帳面も。常連さんも」
「いっぱいありますね」
「いっぱいあるのよ」
テレーゼは、黙って続きを待った。
「だから、私がいなくなる前に教えたい」
「はい」
「ちゃんとできる人に」
「はい」
「それを見届けてから、行きたい」
マリーは、卓の上で指先を組んだ。
「別に、嫁に行きたくないわけじゃないの」
「はい」
「あの人と暮らすの、楽しみにしてる」
そう言って、マリーは少しだけ照れたように目を伏せた。
「向こうの家、今、あの人が自分で直してるの」
「自分で?」
「大工だから」
「まあ!」
「古い家なの。床を張り直して、棚も作るって」
「自分のお家を自分で作れるんですか!」
「直してるだけ」
「すごいです!」
「本人も楽しそうよ」
マリーの笑顔を見て、テレーゼにも分かった。
結婚が嫌なわけではない。新しい暮らしも、ちゃんと楽しみにしている。
でも。
「ここも、大事なんですね」
「うん」
マリーは、使いこまれた卓の木目を、指でなぞった。
「だって、ずっとここにいたもの」
卓に目を落としたまま、マリーはそれ以上、何も言わなかった。
テレーゼは、深く頷いた。
「分かりました」
言ったとたん、マリーがこちらを見た。
テレーゼは、慌てて両手を振った。
「あっ、違います!」
「何が?」
「今の『分かりました』は、昨日の『私、分かりました!』ではありません!」
「……何が違うんです?」
「勢いが違います!」
マリーが、たまらず吹き出した。
厨房から、薪を置く音がした。
「明日の朝の分は、多めに運んでおく」
マリーの笑い声が、ぴたりと止まった。




