第7話 私、分かりました!
「私が聞きます!」
テレーゼは、胸を張った。
宿屋の主人とマリーは、そろって口をつぐんでいる。
卓の上では、食べかけの魚の煮込みが、まだ細く湯気を立てていた。
先に口を開いたのは、マリーのほうだった。
「どうして?」
「今日、分かったんです!」
「何が?」
「分からないことは、相手に聞けばいいんです!」
マリーは、黙って父親を見た。
父親も、マリーを見た。
「市場で何かあったの?」
「はい!」
「そう」
「すごく勉強になりました!」
「それはよかったわね」
「はい!」
マリーは、それ以上は何も聞いてこなかった。
なぜだろう。
「嬢ちゃん」
主人が言った。
「はい」
「飯、冷めるぞ」
「あっ」
慌てて、匙を持ち直す。
けれど、目の前ではまだ言い合いが続いている。
「もう勝手に決めないでって言ったでしょう!」
「勝手に決めてるんじゃない!」
食べにくい。
非常に、食べにくい。
テレーゼは、匙を置いた。
「あの」
「なんだい」
「なんです?」
「喧嘩の原因を聞いてもいいですか?」
二人が、また黙りこんだ。
テレーゼは待った。今日は、口を閉じて待てる。
やがて、マリーがぽつりと言った。
「……私、来月、嫁に行くの」
「まあ!」
テレーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「おめでとうございます!」
「ありがとう」
「この町です?」
「隣町よ」
「近いんですね!」
「馬車なら半日もかからないわ」
「では、いつでも帰ってこられますね!」
「そうね」
マリーが少し笑い、テレーゼもつられて笑った。
いい話ではないか。結婚して、隣町へ行く。帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
いったい何を喧嘩することが――
「それで、こいつが嫁に行ったあとに働く人間を探してる」
主人が言った。
「お父さん!」
「それで揉めてるんだろ」
「そういう言い方するから!」
「何が違う」
「全然違う!」
テレーゼは、二人の顔を見比べた。
マリーが嫁に行くから、代わりに働く人を探す。
どこも、おかしくないように思える。
「マリーさんがお嫁に行くから、新しい人を雇うんですよね?」
「そうだ」
「いい人が来てくれるといいですね!」
「ほら!」
主人が、卓を指で叩いた。
「普通そう思うだろ!」
「お父さんは黙ってて!」
「なんで俺が怒られるんだ!」
「そういうところよ!」
分からない。
テレーゼは、困り果てた。
けれど――分からないなら、聞けばいい。
「マリーさん、何か嫌なんです?」
マリーに向かって尋ねると、マリーは腕を組んだ。
「嫌っていうか……私に何も言わずにやってるからよ」
「何を?」
「人探し」
「ああ」
「この前なんて、私が買い物から帰ったら、知らない人が厨房にいたの」
「あれは、面接だ」
主人が、口を挟んだ。
「だから、どうして私がいないときにするのよ!」
「お前がいたらやりにくいだろ!」
「なんでよ!」
「なんでって……」
主人が、言葉に詰まる。
マリーが、テレーゼのほうを向いた。
「ほらね」
なるほど、と、テレーゼは少しだけ分かった気がした。
「マリーさんは、自分の代わりを勝手に決められるのが嫌なんですね」
「そう!」
マリーが、身を乗り出した。
「私、ずっとここで働いてきたのよ」
「はい」
「お客さんの顔も知ってる。どの部屋の窓が閉まりにくいかも知ってる。朝、どの商人さんが早く出るかも知ってる。パンを多く食べる人も、薄いスープが好きな人も」
テレーゼは、黙って頷いた。
毎晩この卓で食べている夕食も、この人が運んでくれていた。
「それなのに、私がいなくなるからって、急に知らない人を連れてきて」
「急じゃない。もう1か月しかない」
「そういう話じゃない!」
「じゃあどういう話だ!」
「だから――!」
マリーの言葉が、そこで途切れた。
テレーゼは、考えた。
マリーは、ずっとこの宿で働いてきた。宿のことなら、誰よりもよく知っている。
それなのに父親は、そのマリーに相談もせず、代わりの人を探している。
だんだん、分かってきた。
気がする。
「では、ご主人にも聞きます」
「俺?」
「はい。どうしてマリーさんに相談しないんです?」
「相談?」
「新しく働く人のことです」
「それは……」
主人は、眉間に皺を寄せた。
「こいつは、もう嫁に行くんだぞ」
「はい」
「だったら、いつまでも宿のことをやらせるわけにいかんだろ」
「でも、まだ1か月ありますよね?」
「1か月しかないんだ」
「だから!」
マリーが、声を張りあげた。
「その1か月で引き継ぎをすればいいでしょう!」
「だから、その相手を探してるんだろ!」
「私も一緒に探せばいいでしょう!」
「お前は嫁入りの支度がある!」
「それくらいできるわよ!」
「できるできないの話じゃない!」
「じゃあ何の話なのよ!」
また、始まった。
テレーゼは、魚をひと口すくった。すっかりぬるくなっている。
それでも、頭の中では考え続けていた。
マリーは、自分を抜きにして話を進められたくない。
父親は、マリーにこれ以上、宿のことをやらせたくない。
マリーは、来月嫁に行く。
父親は、新しい人を探している。
四つの欠片が、ぱちん、と一枚の絵にはまった。
――はまった、と思った。
「私、分かりました!」
二人の声が、ぴたりと止まった。
「……何が?」
「ご主人」
「なんだ」
「寂しいんですね!」
「違う」
間髪を入れずに、答えが返ってきた。
「えっ」
「違う」
「でも!」
「違う」
「まだ何も説明してません!」
「説明しなくていい。違う」
マリーが、ぷっと吹き出した。
「寂しい、って」
「お前まで言うな!」
「だって、そういうことでしょう?」
「違う!」
「分かってるわよ。私が嫁に行くから、宿から追い出そうとしてるんでしょう?」
「追い出す!?」
主人の顔色が、変わった。
「誰がお前を追い出すと言った!」
「言ってないわよ! でもやってることはそうでしょう!」
「どこがだ!」
「私がまだいるのに、次の人、次の人って!」
「必要だから探してるんだ!」
「そんなに早く私をいないことにしたいの!?」
「違う!」
「じゃあ何よ!」
「お前が――」
主人は口を開きかけて、そのまま止まった。
「何?」
「……なんでもない」
「ほら!」
マリーが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「いつもそう。結局、何も言わない!」
「待ってください!」
テレーゼも、がたんと立ち上がった。
「マリーさん!」
「なに?」
「ご主人は、きっと素直に言えないだけです!」
「嬢ちゃん」
「寂しいから、マリーさんがいるうちに次の人を決めて、早く慣れようとしてるんですよ!」
「嬢ちゃん、違う」
「大丈夫です!」
「何が大丈夫なんだ」
「私が説明します!」
「説明するな!」
テレーゼは、マリーへ向き直った。
「ご主人はマリーさんにお嫁に行ってほしくないわけでは――」
「嬢ちゃん!」
「ないんですよね?」
「だから話を――」
「だったら、なんで私を外すの?」
マリーの声は、低く沈んでいた。
テレーゼの口が、開いたまま止まった。
「え?」
「寂しいなら、そう言えばいいでしょう」
「いや、だから――」
「私だって、この宿を離れるの、何とも思ってないわけじゃない」
マリーは、まっすぐに父親を見た。
「ここでずっと働いてきたのよ」
主人の目線が、卓の上に落ちた。
「なのに、お父さんは私がいなくなったあとの話ばっかり」
「それは――必要だからだ」
「分かってる!」
マリーの目の縁が、うっすらと濡れて光った。
「分かってるから腹が立つのよ!」
テレーゼは、椅子の背をつかんだ。
「私がいなくなっても、この宿は続く。誰かが私の代わりに働く。そんなの分かってる!」
主人は、何も言わない。
「でも、まだ私、ここにいるでしょう!」
主人の拳が、膝の上で固く握られた。
それでも、口は開かなかった。
マリーは唇を噛み、小さく言った。
「一緒に探したかっただけなのに」
そのまま、奥へ向かう。
「待っ――」
主人が手を伸ばしかけて、途中で止めた。
扉の閉まる音。
あとには、竈の火の音だけが残った。
テレーゼは、立ち尽くしていた。
卓の上で、魚の煮込みはすっかり冷めきっている。
「嬢ちゃん」
「はい」
「座れ」
「はい……」
腰を下ろすと、主人も向かいの椅子にどさりと座った。
テレーゼは、椅子の上で身を縮めた。
「あの」
「なんだ」
「私……」
「うん」
「余計なことをしました?」
「したな」
はっきり言われた。
「すみません……」
「まあ」
主人は、ガシガシと自分の頭を掻いた。
「俺も、ちゃんと話してなかったからな。あいつの言ってることも分かる」
「では」
テレーゼは、顔を上げた。
「やっぱり、寂しいんですか?」
「そこから離れようか」
「はい」
怒られた。
しばらく、二人とも口をきかなかった。
やがて主人が、冷めた皿に目を落とした。
「温め直すか」
「お願いします……」
主人が皿を持って立ち上がり、厨房へ向かう。
テレーゼは、その背中を見つめた。
今日、市場では、相手に聞いたら分かった。
何を切るのか。どこで困っているのか。
布が逃げること。新しい鋏なら、ちゃんと噛むこと。
聞いて、見て、それで分かった。
だから、人も同じだと思ったのに。
違ったのだろうか。
「ご主人」
「あ?」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「まだ聞くのか」
「……駄目ですか?」
主人は振り返り、少しだけ考えた。
「聞くだけなら、な」
「はい」
今度は、答えを決めずに尋ねた。
「マリーさんがお嫁に行くの、嫌なんですか?」
「嫌じゃない」
すぐに、答えが返ってきた。
「止めたい?」
「止めたくない」
「では――」
テレーゼは、首を傾げた。
「何が、そんなに心配なんです?」
主人は、黙りこんだ。
厨房の竈で、火がぱちりと小さくはぜた。
「……あいつが嫁に行くのを、止めたい、だなんて」
長い沈黙のあとで、主人はようやく口を開いた。
「はい」
「むしろ、ちゃんと行かせてやりたいんだ」
「……はい」
「ここのことを気にしないでな」
テレーゼは、目を瞬いた。
「ここ?」
「この宿だよ」
主人は、がらんとした食堂を見回した。
「あいつがいなくなったら、俺一人じゃ回らん。そんなこと、あいつが一番よく知ってる」
「はあ」
「だからこのままじゃ、あいつは嫁に行っても、いつまでもこっちを気にする」
テレーゼは黙って、言葉の続きを待った。
「忙しいんじゃないか」
「はい」
「ちゃんと飯を出せてるか」
「はい」
「客を待たせてないか」
「……はい」
「そのうち、手伝いに帰るとか言い出すだろう」
テレーゼは、さっきマリーが消えていった奥の扉に目をやった。
「だから、探してるんですか」
「ああ」
「マリーさんの代わりに働ける人を」
「ああ」
「マリーさんが、安心してお嫁に行けるように」
主人は、答えなかった。
テレーゼは、膝の上で両手をぎゅっと握った。
「難しいですね」
「何が?」
「人、です」
主人が、ふんと鼻を鳴らした。
「知らなかったのか」
「この前も似たようなことを言われました」
「商売で?」
「はい」
「じゃあ、覚えとけ」
「はい……」
主人は、厨房へ戻っていった。
しばらくして、温め直された魚の煮込みが、湯気とともにテレーゼの前へ置かれた。
「食え」
「ありがとうございます」
テレーゼは、匙を手に取った。
奥の扉は、まだ閉まったままだ。
向かいに座った主人が、何か言いかけて口を開き、少ししてそのまま閉じた。
テレーゼは、温かくなった魚をそっと口に運んだ。




