第6話 何に使うんですか?
4日目の朝。
市場へ向かいながら、テレーゼは昨日のことを思い返していた。
石鹸は売れた。
切ったら売れて、小さくしたら、もっと売れた。
商品そのものは、何も変わっていないのに。
「買う人に合わせればいいんですね」
ひとりで、頷く。
一昨日の自分より賢い。昨日の自分よりも、たぶん賢い。
旅に出てから、毎日少しずつ賢くなっている気がする。
「この調子なら、1か月後には大商人かもしれません」
誰も聞いていないので、誰も止めなかった。
◇
「おはようございます!」
「おはようさん」
いつもの場所に、いつもの乾物売りの女がいる。
テレーゼが敷物を広げていると、女が面白そうに声をかけてきた。
「今日は何を切るんだい?」
「切りませんよ!」
「そうかい」
「毎日石鹸を切る旅商人ではありません!」
「その香水の瓶とか」
「切りませんよ!」
言い返しながら、商品を並べていく。
香水、石鹸、櫛、小物。
昨日作った値札も、それぞれの前に立てた。
◇
昼前、一人の男が足を止めた。
年配の男だった。指が太い。爪の間には、黒い汚れが入りこんでいる。
男は並んだ商品を、端から端までひととおり眺めた。
「鋏はないのか」
「ありません!」
「元気よく言うことか?」
「すみません!」
「元気だなあ」
男は肩をすくめて、行きかけた。
「あの!」
テレーゼの声に、男が振り返る。
「何をお探しですか?」
「だから、鋏だよ」
「それは分かりました! 何に使うんですか?」
男は、妙なものを見る顔をした。
「布を切る。仕立屋だからな」
「今のその鋏では駄目なんです?」
「切れないわけじゃないんだ」
男は、腰から古い鋏を抜いた。
「見てもいいです?」
「ああ」
受け取った鋏は、重くて大きかった。
何年も使われてきたのだろう。持ち手はすっかり擦れて、手の形に艶が出ている。
開いて、閉じてみる。どこが悪いのか、テレーゼにはさっぱり分からない。
「ちゃんと動きます」
「先がな」
「先?」
「逃げるんだよ」
「逃げる?」
「布がな」
テレーゼがますます首を傾げると、男が笑った。
「見てろ」
男は古い鋏を取り戻し、懐から布切れを1枚取り出した。
「ここを切りたいとするだろ」
「はい」
「こう入れて――」
しゃき。
刃が動いて、布は切れた。
「切れました」
「先を見てろ」
もう一度。
刃が閉じる直前、布がほんの少し、前へ滑った。
「あ。逃げた!」
「そう」
「切れないわけじゃないんですね」
「切れるよ」
「でも、思ったところから、ずれる」
「そう」
「だから探してる」
鋏、と口の中で繰り返す。
大きな裁ち鋏。どこかで見た。
一昨日、売れる品を探して、市場の外まで歩いたときだ。
鍋、釘、小刀。その横に――
頭の中で、町の道がつながった。
「ありました!」
「持ってるのか?」
「持ってません!」
「ないのかよ」
「でも、あります!」
「どっちだよ」
テレーゼは、勢いよく立ち上がった。
「ちょっとお店を見ていてください!」
「は?」
「すぐ戻ります!」
「いや、待て。店って――」
「お願いします!」
走った。
「おい、嬢ちゃん!」
背中に飛んできた声は、もうテレーゼには聞こえなかった。
隣の乾物売りが、男と、主のいなくなった敷物を見比べた。
「行っちまったね」
「俺は客なんだが」
「今は店番らしいよ」
「聞いてないぞ」
◇
市場の端を抜けて、2本目の通りを右へ。
鍋、釘、小刀が並ぶ金物屋の店先に、それはあった。
「裁ち鋏をください!」
店主が、帳場から目を上げた。
「どれだい」
「布を切る、大きいものです! 刃の先で、布が逃げないもの!」
店主は棚から一つ取って、台に置いた。
「なら、これだな」
大きい。重い。刃が長い。
さっきの鋏とそっくりだ。
テレーゼは自分のハンカチの端を、刃の根元で切り、先でも切ってみた。
布は、逃げなかった。
「これください!」
仕入れ値を払い、鋏を胸に抱えて、また走った。
◇
「お、お待たせ、しました……!」
戻ったときには、すっかり息が切れていた。
年配の男は、敷物の向こうで腕を組んで待っていた。
「嬢ちゃん。俺に店番させて、どこまで行ってたんだ」
「金物屋さんです……!」
テレーゼは、裁ち鋏を高々と掲げた。
「ありました!」
「本当に買ってきたのか」
「はい!」
「俺、ずっとここにいたんだけど」
「ありがとうございます!」
「いや。それとな」
男が、売り台を指した。
「お前がいない間に客が来たから、この石鹸と櫛、売っておいたぞ」
「……え?」
「代金はそこだ。値札どおり」
敷物の隅に、硬貨が置いてある。
丸ごと一個の石鹸と、立派な櫛が一つ。いつの間にか、なくなっていた。
「う、売ってくださったんですか?」
「店番だからな」
「私が何日かけても売れなかったのにぃ……!」
「知らんよ」
テレーゼは男を見て、硬貨を見て、もう一度男を見た。
「どうやって?」
「聞かれたから答えただけだ」
「それだけで?」
「それだけだよ。それより鋏は?」
「そうでした!」
裁ち鋏を差し出す。
「試してみてください!」
男は鋏を受け取り、さっきの布切れを台に置いた。
しゃき。
もう一度、しゃき。
今度は、布が滑らなかった。刃の先まで、きちんと布を捉えている。
「ちゃんと噛むな」
「噛んでます!」
「ああ」
「逃げません!」
「そうだな」
テレーゼは、仕入れ値に少しだけ利益を足した値段を言った。
「これ、買うよ」
「本当ですか!」
「ああ」
「ありがとうございます!」
売れた。
この人が何に困っていて、この鋏ならどうして役に立つのか。
今度は、ちゃんと分かる。
「よかったです!」
「助かったよ。ただ、嬢ちゃん」
「はい?」
男は鋏を持ったまま、少し首を傾げた。
「これ、どこで買ってきた?」
「市場の端を出て、2本目の通りを右へ曲がった金物屋さんです!」
男は黙った。
テレーゼは、きょとんとその顔を見返した。
「それ、俺に店を教えてくれりゃよかったんじゃないか?」
テレーゼは止まった。
男を見る。
鋏を見る。
自分が走ってきた方角を見る。
もう一度、男を見る。
「……あっ」
「今、気づいたのかよ」
「……でも、買ってくださるんです?」
「俺が行って探すより早かった。探し歩かずに済んだ分なら、その値段でいい」
売れないまま歩き回った町の道が、役に立った。
自分の商品ではなかったものが、売れた。
しかも留守の間に、自分の商品まで売れていた。
「商売って、忙しいですね……」
「忙しくしたのは嬢ちゃんだろ」
男は笑いながら、行ってしまった。
テレーゼが売り台へ戻ると、隣の女が聞いた。
「いい商売だったかい?」
手元の硬貨と、敷物の上に空いた2つの隙間を見比べる。
「……誰の商売だったんでしょう」
「知らないよ」
◇
昼食のパンを買いに行く途中、テレーゼは少し離れた店の前で足を止めた。
店先には布が積まれ、針や糸、珍しい形のボタンが並べられている。
その奥で、店の男が客と話していた。
「これは何に使う?」
「子どもの上着」
「普段着?」
「そう」
「ならこっちでいい。そっちは丈夫だが、そこまでいらん」
「でも高いほうが長持ちするんじゃ?」
「長持ちはするよ。だが子どもは先に大きくなる」
「ああ、そうか」
テレーゼは、目を丸くした。
客は安いほうの布を買って、帰っていく。
気づけば、店先へ駆け寄っていた。
「あの!」
「ん?」
「今、何をしたんです?」
「何って」
「どうして高いほうを売らなかったんです?」
「いらないから」
「でも、良いものなんですよね?」
「良いものだよ」
「だったら――」
そこで、テレーゼは口をつぐんだ。
数日前の自分と、同じことを言いそうになっていた。
店の男が、にやりと笑う。
「良いものなら何でも売りつけりゃいいって?」
「……前は、そう思ってました」
「今は?」
「ちょっと違う気がします」
「なら、それでいいんじゃないか」
「でも、どうやって分かったんです?」
「何が」
「その人に、こっちの布で十分だって」
男は肩をすくめた。
「客と話をしただけだ」
「私も喋ってました!」
男は、テレーゼの顔をじっと見た。
「……それ」
「はい?」
「もしかして、お嬢ちゃんが喋ってただけかもな」
テレーゼは、固まった。
数日前、朝から夕方まで市場に立ち続けた日。
耳の奥で、自分の声が鳴りはじめる。
『それにですね!』
『それにですね!』
『それにですね!』
「……あ」
「心当たりあるのか?」
「私が……喋ってただけでした?」
「知らんよ。見てないから」
「でも!」
「知らんって」
男は笑って、店の奥へ引っこんでしまった。
人の流れの真ん中で、テレーゼは突っ立ったまま動けなかった。
「喋るのと……話すのは……違う……?」
ものすごい発見だった。
◇
「ただいまです!」
「おかえりなさい」
夕方、宿の扉を開けると、いつもの声が返ってきた。
朝から市場に立ち、この声を聞いて、ようやく一日が終わる。
テレーゼは、ほっと肩を落とした。
「今日はどうでした?」
食器を運びながら、マリーが尋ねた。
「聞いてください!」
「はいはい」
「鋏が売れました!」
「まあ」
「しかも、ちゃんと黒字です!」
「それはよかったですね」
「それだけじゃないんです!」
「今日は長そうですね」
「長いですよお!」
テレーゼは、いそいそと席についた。
「今日は何です?」
「魚の煮込みです」
「お魚!」
「パンもありますよ」
「やった!」
目の前に、皿が置かれる。
立ちのぼる湯気に、魚と野菜の匂いがふわりと混じっていた。
「いただきます!」
ひと口すくって、口に運ぶ。
「おいしい!」
「それはどうも」
奥の厨房から、男の声がした。
「なんでお父さんが言うの」
「味見したのは俺だぞ」
「作ったのは私でしょう!」
「焦がしかけたろ」
「焦げてないんだからいいの!」
テレーゼは、くすくす笑った。
「今日も仲良しですね」
マリーの手が、ぴたりと止まった。
「どこがです?」
「え?」
「どこを見たらそうなるんです?」
テレーゼが返事に詰まっていると、奥から父親の声が飛んできた。
「その嬢ちゃんのほうが正しい」
「お父さんは黙ってて!」
「ほら、仲良しです!」
「違います!」
いつものやりとりだった。
たぶん。
テレーゼは魚をつつきながら、今日あったことを話した。
石鹸のこと。鋏のこと。仕立屋のこと。布屋のこと。
「それでですね」
匙を置く。
「分かったんです!」
マリーが、くすりと笑った。
「今度は何が分かったんです?」
「分からないなら、聞けばいいんです!」
マリーは目を瞬いた。
「何に使うとか。何に困ってるとか。そういうのを、先に聞くんです!」
「へえ」
「そうすれば――」
がちゃん。
奥で、何かが置かれる音がした。
厨房仕事にしては、少し強すぎる音だった。
マリーが振り返る。
「……また?」
さっきまでの笑いが、その声から消えていた。
テレーゼは、匙に伸ばしかけた手を止めた。
父親が、紙を1枚持って奥から出てきた。
「今日、話をしてきた」
「頼んでない」
「まだ何も言ってないだろ」
「何の話か分かるもの」
「だったら話が早い」
「早くない!」
テレーゼは、二人の顔を見比べた。
マリーの眉が吊り上がっている。
父親の口が、への字に固まっている。
「もう勝手に決めないでって言ったでしょう!」
「勝手に決めてるんじゃない!」
「同じよ!」
「同じじゃない!」
「私のことなのに!」
「お前のことだからやってるんだ!」
「だから、それが――!」
テレーゼは、手元の魚の煮込みに目を落とした。まだ半分残っている。
それから、二人を見た。
今日覚えたばかりのことが、喉元まで上がってきていた。
「あの!」
父娘が、同時にこちらを向いた。
「何だい?」
「なんです?」
テレーゼは、胸を張った。
「私が聞きます!」
厨房の鍋が、ことこと鳴る音だけが響く。
口を半開きにした父娘の前で、テレーゼだけが、晴れ晴れと笑っていた。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
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「商人としての成長が止まらない」テレーゼを、どうぞよろしくお願いいたします。




